EVERGREEN 第一話 『ホーム』

 

     1

 

 世の中には、悪いヤツってのはいるもんだ。俺のオヤジが正にそれ、ヤツは悪党の代表格だ。俺は、自分のオヤジほど悪いヤツをみたことがない。

「この家とあれはお前にやろう。まだ子供だから、そう無茶はするなよ。壊しちまったら言ってこい、どうとでもなる」

 これはさっき、騙し陥れて手に入れた(らしい)女と一緒に家を出ていったオヤジが、俺に言い残した言葉だ。

 この家というのは、今俺が住んでいるマンション…っても、二億は軽く越える高級マンションのことで、あれというのは、手に入れた女の娘のことだ。

 ヤツはどうしようもない女好きだが、子供には興味を示さない。で、邪魔な子供を俺に押しつけて、女を連れて出ていっちまった。

 別に俺は、オヤジがいようがいまいがなんとも思わない。金だけは、腐るほど置いていったからな。

 そうだな…まぁ遊んで暮らしたとしても、二、三十年は大丈夫だろう。

 ヤツが他人を騙し、ケリ降ろし、ふんだくって手にした、汚れ呪われた金だ。だが、金には違いない。

 俺はセンチメンタリストじゃない。

 例え血にまみれていようが、涙が染み込んでいようが、呪いが込められていようが、そんなことは気にしない。

 金は金。それ以上でも、それ以下でもない。

 ありがたく使わせてもらうだけだ。

 だが、こいつはどうしろっていうんだ?

 そう、ヤツが置いていった子供だ。

「おい。いつまでも泣いてんじゃねーよ」

「ぐすっ…ご、ごめんなさい…うっ…」

「名前…お前の名前は?」

「るな…佐々木瑠奈…です…」

「歳は?」

「ひっく…十歳…小学校…グスッ…五年生です…」

 五年生だぁ…それにしちゃ小さくないか? いや、こんなもんか? 十九にもなると、小学生の学年を見分けることなんてできない。

「いつまでも泣いてたって、ママは帰ってこねーぞ。泣くだけ無駄だ」

「…うっ…ひっひっく…グスッ…」

 チッ…俺にどうしろっーんだッ、オヤジのヤツ。

 去り際のくだらねぇセリフからだと、こいつを玩具にでもして遊べってことだろうが、俺がこんな子供に手だすわけねぇだろ。女なんて、金さえ出せばいくらでも手に入るんだから。

 俺は泣いているそいつ、瑠奈をそのままに、自分の部屋に戻った。

 

 コンコンッ

「あの…入っていいですか?」

 瑠奈か。どうしたんだ、こんな時間に? 子供は寝てる時間だぞ。

「どうした。眠れないのか」

「いえ…入っていいですか?」

 なんなんだ一体?

「いいぜ。入れよ」

 ドアを開け姿をみせた瑠奈は、なにも身にまとっていなかった。まぁ、素っ裸ってやつだ。

「…どういうつもりだ?」

「あっ…その…ママが、お兄さんのいうことはなんでも聞きなさいって…」

「だからどういうつもりだ。俺は裸で俺の部屋にこいなんていってないぞ」

「でも…こうしなさいって…」

「ママがいったのか?」

 瑠奈はコクンと肯いた。

 あの女。余程オヤジが恐ろしいんだろう。俺に娘を差し出してまで、オヤジの機嫌を損ないたくないのか。俺はオヤジのミニチュアじゃねーぞ。こんな子供に手を出すとでも思ったのかッ。

 クソッ! バカにしやがってッ。

 瑠奈は俺がなにもいわないので、どうすればいいのかわからず突っ立っている。腕を胸の前で交差させ、膨らみのほとんどない胸を隠しているが、無毛の下半身は丸出しのままだ。普通、胸より下半身を隠すだろ? なに考えてんだ、このガキは?

「あ、あの…」

 よく見ると、瑠奈は震えていた。ブルブルと震える脚で、それでも健気に立っている。

 俺が怖いんだろう。

 当たり前だ。

「俺のいうことは、なんでも聞くんだな?」

「は、はい」

「じゃあ。裸でここに来た意味はわかってるのか? なにをされるのか、わかってるのか?」

「…はい…わかっています…」

「したことあるのか?」

「ない…です。でも、一生懸命がんばります」

 その声も震えている。

 別に一生懸命がんばってもらうつもりはないが、俺は瑠奈の言葉に苦笑してしまった。

 なんかこいつ、かわいいな。

 見た目はどうということはない。っていうか、俺には子供の見分けなんかつかない。だが俺は、瑠奈をかわいいと思った。

「じゃあ、命令する」

「はい」

「服着てこい」

「はい…えっ? あ、あの…いいんですか?」

「いうことは聞くんだろ?」

「は、はいッ。すぐに着替えてきます」

 部屋から出て、トタトタと廊下を叩く瑠奈の足音。俺はその軽い音に耳を澄ませた。

 

 服を着て戻ってきた瑠奈に、俺は座るようにいった。

 すると瑠奈は、どこに座ればいいかわからないのか、キョロキョロと室内を見回し、少し迷ってから、部屋のほぼ中央に置かれているテーブルの側に、ちょこんと正座で座った。

 俺は瑠奈の正面のベッドに腰掛け、

「お前は今日から、俺とここで暮らす。これはわかってるな?」

 瑠奈は肯いた。

「ママはいない。これもわかってるな?」

 少しの間があったが、やはり肯いた。

「俺が恐いか?」

「…いいえ…」

「別に怒らない。正直にいえ」

「少し…だけ」

「ホントに少しだけか?」

「はい…叩かないから…」

 叩かないって…こいつ、今までどんな生活してたんだ?

「お前、学校はどうしてる。ちゃんと行ってるのか?」

「最近は行ってません…」

「どのくらいだ」

「…夏休みに入ってから…です」

 夏休み? もうすぐ十月だぞ。

「学校行きたいか?」

「…いいえ」

「なぜ?」

「イジメられるから…」

「なんでイジメられたんだ?」

「お金がないから…です」

「金がないから? なんで、そんなことでイジメられるんだ?」

「給食費とか…ちゃんと払えないから…」

 …どうしようもないな…。

「お前、お父さんはどうした?」

「いません」

「いつから?」

「ずっと…です」

「ずっと? 会ったことないのか?」

「はい。ないです」

 私生児か…。

「じゃあ、ママと二人で暮らしてたんだな?」

「いいえ…おばあちゃんも」

「そのお祖母ちゃんは?」

「死にました」

「いつ?」

「一ヶ月くらい前です」

「オヤジ…ママと一緒に出てった叔父さんとは、いつ会ったんだ」

「今日、初めてです」

 と、瑠奈が欠伸をしそうになり、俺にばれないようにか口元を手でかくして、噛みころした。

 時計を見ると、午前三時になろうとしていた。子供には辛い時間だ。

「…わかった。今日はもう眠くなったから、話の続きは明日だ。お前も寝ろ」

「は、はい」

 だが俺は気づいた。

 瑠奈の寝る場所がない。オヤジの寝室があるが、なぜか俺は瑠奈にそこを使わせるのがイヤだと感じた。

「…取りあえず。今日はこの部屋で寝ろ。このベッド使っていいから」

「でも…」

「命令だ。俺は別の場所で寝るから」

 そう言い残して、俺は部屋を出た。

 

     2

 

 結局俺は、リビングのソファーで毛布を被って寝た。起きると、正午を少し回っていた。

 瑠奈は…?

 リビングを見回したが、瑠奈の姿はなかった。

 まだ寝てるのか? 俺は自分の部屋を覗いたが、瑠奈はいなかった。

 家中捜した。

 だが、瑠奈はいなかった。

「逃げたのか…?」

 まぁ、逃げたくもなるだろう。

 俺はどうでもいいと思いながら、シャワーを浴びた。いつもより、お湯の温度を高くして。

 コーヒーを炒れて、ブラックで飲んだ。なぜだろう? いつもは少しだけ砂糖を入れるのに、今日はブラックで飲んでみたくなった。

 日が落ちるまで、なにもする気が起きず、俺はぼーとしていた。セックスフレンドの果穂から携帯にテルが入ったが、俺は発信者名を見ただけで、電源を切った。

 そういう気分じゃなかった。

 瑠奈のやつ、どこに行ったんだ? 行くとこあるのか?

 不意にそう思った。

 クソッ! なんで俺が、あんなガキのこと心配しなきゃなんねーんだッ。

 俺は腹が空ったので、飯を食いに行くことにした。俺は、贅沢な飯が好きじゃない。どこに行こうかと思ってすぐ、お節介な若夫婦がやっている小さな喫茶店が思い浮かんだ。コーヒーは今一だが、紅茶がすごくウマイ店だ。あそこなら軽食もあるし、最近行ってなかったから、顔を出すのも悪くない。

 俺はそう決めて、上着を羽織って家を出た。エレベーターに乗り一階へ。外へ出るには、二重になったドアを抜け、来客用に椅子などが置かれたロビーを抜ける必要がある。

 二重のドアになっているのは、変なヤツが勝手に入り込まないような仕掛けがあるからだ。来客はロビーで自分が訪れる部屋にアポをとった後、その部屋から一つ目のドアを開けてもらい、部屋の主がモニターから自分の客以外の人間がいないか確認したのち二つ目のドアを開け、それでやっとマンションに入ることができるようになっている。

 だが、外に出るのは自動だ。

 二つ目の自動ドアを潜り、来客用のロビーを抜けて外に出ようとした時。

 俺は変なモノを見つけた。

 それは、ロビーに備え付けられているソファというか、ベンチというか、まぁそんなものに、項垂れて腰掛けていた。

 俺がそれに近寄ると、それは顔を上げ、今にも泣きだしそうな顔をした。

「お前…こんなとこでなにしてるんだ?」

「ご、ごめんなさい…あの…起きたら寝てたから…お昼だったから、ご飯作ろうと思って…」

 それの隣には、なにかが入ったビニール袋があった。

 どうやら、昼食の材料らしい。

「買い物に出たのか? 金はどうした?」

「ママが…昨日二千円くれたから…それで…」

「だったら、なぜこんなとこで座ってるんだ?」

「…ドアが開かなかったから…開いたときもあったけど、入れてもらえなかったから…」

「呼び出せばいいだろッ! 俺が家にいるんだからッ!」

 俺はなぜか、すごく…なんともいえない気持ちになって、怒鳴った。

「ごめんなさいッ…うっ…どうすればいいか、わからなかったんです…ひっく…えっえっ…」

 なにも泣くことないだろッ?

 クソッ…なんだよ一体ッ!

 逃げたんじゃなかったのか? 買い物だとッ? なんだよそれッ!

「心配したんだぞッ!」

 そうだ。俺は…ずっと瑠奈のことを心配していたんだ…。

 なんだ…そうだったのか。

 泣いている瑠奈を見ながら、俺はなんだか気の抜けたような、そして安心したような気持ちになって…

「ほら、泣くな。もう怒らないから」

「ごめんなさい。ごめんなさい…」

「もういいから、上に行くぞ」

「グスンッ…は、はい…」

 俺はカードキーでドアを開け、左手にビニール袋、右手には瑠奈の小さな手をもって、外に出ることなく家に戻った。

 

 瑠奈の料理は、美味かった。

 手際もよく馴れた様子で、瑠奈は料理を作った。

「ご飯を作るのは、あたしの仕事でしたから…」

 だそうだ。

 食事を終え、俺は予備のキーを瑠奈に渡した。

「これ、お前のだから」

「なんですか…これ?」

「鍵だよ鍵ッ。お前が開けられなかったドアの。それと、この家の」

「…カードですけど…」

「ここの鍵はカードなのッ。さっき俺がそれで下のドアも、家のドアも開けただろ?」

「…ごめんなさい…見てませんでした…」

 そういえば、こいつずっと泣いてたよな。それで見てなかったのか。

「じゃ、今から使い方教える」

「あっ、はいッ」

 俺は瑠奈にキーの使い方を教えた。それでわかったことだが、瑠奈は俺が思っていたより頭が良い。ロビーから家の中へ連絡する方法も、一度説明しただけで覚えた。

「お前。頭良いのか? 学校の成績とが良かっただろ」

 家に戻ってから、俺はそう訊いた。

「…悪くはなかったと思います。でも、そんなに良くもなかったですけど…」

「十五×十五はいくつだ」

「えっ? …七十五+百五十ですから、二百二十五です…か?」

 ほとんどタイムラグなしに答えた。

「五百六十八×七十九は?」

「…五千六百八十−五百六十八が五千百十二で、五百六十八×七十が…三万九千七百六十ですから…四万四千八百七十二…ですか?」

 …ですか? といわれても、俺にわかるわけがない。適当に数字をいっただけだからな。

 こいつ…ホントは、むちゃくちゃ頭良いんじゃねーか?

「…やっぱり、違いますか…?」

 呆然としていた俺を、瑠奈がなにかを失敗したような顔で見ていた。

「いや…合ってる(と思う)」

「そうですか? よかったです」

 瑠奈は、ホントに嬉しそうに笑った。

 …そういえば、こいつの笑った顔初めて見たな。

 子供だとは分かっていたが、瑠奈の笑った顔はこれまで以上に、こいつはまだ子供なんだという事実を俺に突きつけた。

 瑠奈は、学校行かせたほうがいい。瑠奈がこれまでどこに住んでいて、どこの学校に通っていたかは知らないが、イジメられていたというのなら、転校させればいいだけのことだ。

 そんなことは簡単だろう。

 まぁいい。それは、もう少し瑠奈のことを知ってから考えればいい。俺はこいつのことを、まだほとんど知らないのだから。

「そうだッ。今何時だ?」

「…八時十二分です」

「まだ間に合うな。いくぞ」

「はい。でも、どこに行くんですか?」

「お前の服とか、パジャマとか、日用品とかなにもないだろ? 買いに行く」

「…あたし…もうお金ありません」

「んなことはいいんだよッ。俺が買ってやるから」

「で、でも」

「俺のいうことは、なんでも聞くんじゃなかったのか?」

「それはそうですけど…」

「命令だ。お前はこれから俺と買い物に行く。お前は、お前が欲しいと思った物を俺にいう。金は俺が払う。わかったなッ」

「は、はいッ。わかりました」

「だったら行くぞ。買う物はいっぱいある。ぐずぐずしてたら、店が閉まっちまうからな」

 俺は瑠奈を連れて、夜の繁華街に向かった。

 

 思ったより、開いている店は少なかった。

 だが、適当に着る物は買えたのでよしとした。

 なんだか、かわいいのかわかいくないのか判別がつかない服に着替えた瑠奈に、

「今日は…っていうか、もう二度と裸で俺の部屋に来るな」

 と、告げた。

 また来られても困るだけだ。

「えっ。でも」

「俺は、お前の身体に興味はない」

「あっ…そ、そうですよね…。あ、あたしなんか…迷惑ですよね…ごめんなさい」

「迷惑とかそういうことじゃなくて、そういう対象じゃないってことだ。分かるか?」

「…あたしのこと…嫌いなんですね…」

 分かってねぇ…。

「違うッ。だからそうじゃなくって…チッ…なんていったらいいんだ? 別にお前が嫌いとかいうんじゃなくてだな…」

「嫌いじゃない…? 本当ですかッ?」

「ホントだ。邪魔でもなければ、嫌いでもない。だけど、女としてはみれない。お前は子供だからな」

「よくわかりません…ごめんなさい…」

「謝らなくてもいい。お前は、普通にしていればいいんだ」

「でもママが…」

「ママはいない。ここには俺とお前しかいない。それにお前は、俺のいうことを聞くんだろ?」

「はい。そうです」

「だったら、そうしろ」

「努力します。がんばって普通にします」

「がんばって普通にしなくていい。普通に普通にしろ」

「はい。がんばって、普通に普通にします」

 こいつ…頭がいいのか悪いのか、よくわかんねーな…。

「…ハァ…じゃ、そうしてくれ」

 溜息まじりの俺の言葉に、

「はいッ」

 瑠奈は真剣な顔で返事を返した。

 

 だがしばらくして、リビングでテレビを観ていた俺に瑠奈が近づいてきた。

「あの…いいですか?」

 おどおどとした声でいった。

「なんだ」

「…ズボンを、脱いでほしいんです…けど…」

「なんでだ? 洗濯する必要はないぞ」

「違うんです。そ、その…ですから、ズボンをはいたままですと、舐めたりできませんし…それに、ミルク…じゃない…えっと、せーえきも飲めませんから…」

 舐める? 精液を飲む?

 こいつは…俺のいったことなにもわかってないのかッ!

「おいッ、どういうことだッ。普通にしろっていっただろッ?」

「ご、ごめんなさいッ…。あたし、普通ってよくわからないんです…あ、あたしは、変わり者ですから…それに…」

「変わり者だ? 誰がそんなこといったんだ?」

「あっ、先生とか…です」

「学校のか?」

「はい…」

 先生なら、教え子に変わり者なんていうなよなッ。なに考えてんだそいつッ。…って、まさかッ。

「それは…」

 って訊きにくいなッ。

「その、舐めるとかは先生に教えられたのかッ?」

「そ、そうです…」

「…したのか…? 先生に…」

「…しました」

 なんだそれッ? マジかッ。

「お前ッ。確か昨日の夜、したことないっていってなかったかッ? いったよなッ」

「ご、ごめんなさいッ。本当にしたことないんですッ。ごめんなさい」

「どっちなんだッ? したのかしてないのか、はっきりしろッ!」

「うっ…ぐすっん…してません。ううぅ…ちゃんとしたのはしてません…です」

「ちゃんとしたのって…」

 なにいってんだ? こいつ…。

 あっ! そういうことかッ。

 セックスはしたことないって、そういうことなのかッ。

 チッ。ヘンタイ教師めッ! こんな子供になにさせてんだッ。ぶっ殺してやるッ!

 瑠奈は「ごめんなさい」と泣きながらいい続けている。

 俺はそんな瑠奈が、とても『可哀相』に感じた。

「…もういい…泣くな」

「ひっく…くすんッ…」

「お前は悪くない。なにも悪くないから…だから…泣かないでくれ」

 ホントに、こいつはなにも知らない子供なんだ。だから、大人のいったことは聞かなければならないと思っているのだろう。疑いもしないで…いや、頭はいいみたいだから、疑ってはいるのかもしれない。でも、拒否することができないんだろう。

 子供だから。

 大人には逆らえないから。

 逆らうと、怒られるから。

 叩かれるから…か。

 クソッ…俺は、こいつのことを知らな過ぎる。こいつが今までどういう生活を送り、なにを教えられ、なにをしてきたのか。

 知らなければならないと思った。

 全てを。

 瑠奈の全てを。

 俺は、俺たちは…。

 この家で、一緒に暮らしていくのだから。

 

「…そいつに、他にはなにもされなかったか? い、いや…話したくないならいい」

 訊かなければ、知らなければならないと思ったが、口にしてみるといいにくいもんだ。こいつは子供だが、女だからな。

 だが瑠奈は、

「えっちなことで…ですか?」

 と、即座に聞き返した。

「…うっ…」

 なんだよ、えっちなことって…ストレート過ぎるぞ…。

「まぁ…そんなことでだ」

「…身体を触られました。おっぱいとか、お尻とか…」

 おっぱいって…お前それはまだないだろ? 昨日みた限りでは、瑠奈は完全な幼児体型だった。十歳にしては、幼過ぎるほどに未成熟だと思う。まぁ、十歳の子供が平均的にどんな体型をしてるかなんて、俺には分からないが。

「それから、その…あそこ…とか」

 ハァ…最低ヤローだな…んなヤツは死刑だ、死刑ッ。

「あと、ビデオ見せられました。ちゃんとした、えっちなことしてるビデオです」

 そんなもん子供に見せるなよッ。

「なぁお前…そんなことされて、イヤだっていわなかったのか?」

「イヤでしたけど…でもそうすると、給食費とか、工作費とか払うのを、先生がまってくれましたから…」

「ママには、そういうことはいわなかったのか?」

「…その…困らせたくなかったんです。えっちなことされてるとはわかっていましたけど、『お金をはやくください』ってママにいって、ママを困らせるのほうがイヤだったんです」

「…そんなに金がなかったのか?」

「はい。ありませんでした」

「どうして? ママは働いてなかったのか」

「いえ、ちゃんと働いてました。なにをしていたのかは知りませんが…」

「じゃあ、どうしてだ?」

「お金を借りていたんです。借金がいっぱいあったんです。だから…お金は恐い人たちに払わなくてはいけなかったんです」

 その借金を、オヤジがなんとかしたってことか…いや、オヤジが『恐い人たち』の元締めってことも…。

 ヤツのことだから、十分にあり得ることだ。

 クソッ! 胸くそワリーなッ!

「なぁ…なんでそんなに借金してたんだ?」

「…わかりません…ただ、おばあちゃんが、お父さんが全部悪いって…」

「…いつから、そういう状態だった?」

「お金がないのは、ずっとでした」

「そうか…」

 なんかヤリ切れねーな…。俺がヘラヘラ遊んでたときには(今もそうだが)、瑠奈はそんな苦労してたんだ…。

「わかった、もういい。もう大丈夫だから。お前は、もう金で苦労する必要はない。俺がなんでも買ってやるから」

「そ、そんなことは…あたしは…なにも返せませんから…」

「じゃあどうするつもりだ? お前に金がつくれるのか?」

「…がんばって、なんとかします…」

「できねーよッ。お前はまだ子供なんだから」

「子供でも…なんとかします」

「身体を売るのかッ?」

「身体を売るって、どういう意味ですか?」

「エッチなことして、お金を貰うのかってことだ」

「そ、そうですか…はい、だったらそれもします。買ってくれる人がいるのでしたら、売ります」

 なに考えてんだ、こいつッ?

「クソッ…違うッ。違うんだよッ! お前はそんなことする必要ねーんだッ。俺が…俺とここにいればいいんだッ。それだけでいいんだッ」

「なにもしないのに、お金はもらえません」

「なにもしないわけじゃないッ。そうだ…お前は料理ができる、俺に料理を作ってくれればいい。なッ? そうだろ?」

「そんなことは当たり前のことです。ここに住まわせてもらうんですから…」

「じゃあお前は、どうするつもりだったんだッ? ここに住みながら働くつもりだったのかッ? どこでッ? どうやってッ?」

「…違います…ママにいわれてました。あたしはここで…お兄さんが望む、どんなえっちなことでも受け入れて、満足してもらって…よくわからないんですが、お兄さんの『奴隷』になって、ずっとえっちなことだけして…それがあたしの『仕事』だっていわれました。でも…お兄さんは…あたしとえっちなことをするのはイヤだって…だから…」

 なんだよそれ…? ドレイ? 瑠奈が俺の奴隷だって? それが母親のいうことかッ?

「だからあたしは…がんばって、なにか違う『仕事』を捜して…」

「だからそれが違うんだッ! お前はそんなことしなくていいんだッ。俺とここで暮らして、学校に行って、勉強して、友達と遊んで、普通の子供みたいに笑って…笑って…」

 どういえば分かってもらえるんだッ? なんで俺はこんなにバカなんだッ! こいつになにをいってやればいいんだッ。

 どうしたらこいつは、瑠奈は…

「…お前は…」

 俺は…

「ここで…この家で…」

 お前は俺と…

「…ずっと…」

 それだけで…

「だからッ」

 そう…だから…

「俺と一緒にいてくれるだけでいいんだッ! それだけでいいんだッ!」

 分かってくれッ。

「…瑠奈…ここで、俺と一緒に暮らしてくれ…なにもしなくていいから、それだけでいいから…お願いだ…俺に、お前の『幸せ』を作らせてくれ…」

 俺は…

「俺は、お前を『幸せ』にしたいんだ…」

 可哀相だと思った。思い上がっているのは理解している。それでも、俺はこいつが可哀相だと思う。

 だから、こいつに幸せをやりたい。

 どうしてこんなにもこいつのことが気にかかるのか、俺は自分でも分からない。

 こいつがまだ子供だからか?

 それもある。

 でも、それだけじゃない気もする。

 似てる?

 誰と?

 俺とだ。

 なにが? 全然違うじゃないかッ!

 俺は金で苦労したことはない。教師に悪戯されたこともない。見ず知らずのヤツと暮らす必要に迫られ、親に『奴隷』を仕事にしろなんていわれたこともない。

 どうして似てるなんて思った?

 分からない。

 ただこれだけは分かる。

 俺はこいつを、瑠奈を『幸せ』にしてやりたい。

 ホントに、そう思ったんだ。

 

     3

 

 親父の下には、頼りになる人間もいる。

 神野さん(俺がさん付けで呼ぶ、数少ない人間だ)もその一人だ。

 瑠奈がここに来て今日でちょうど一週間になる。そろそろ頃合いだと思い、俺は彼に、瑠奈の学校のことを頼むことにした。

 俺は、どうしたら瑠奈を学校に通わせてやることができるか、具体的な方法を知らなかったからだ。

 神野さんは、瑠奈に幾つかのテストをして、それで通学させる学校を選ぶことにしたらしい。

 さっきまで瑠奈は、知能指数テストとか、偏差値テストとかをやらされていた。

「…驚きました」

 採点を終えた神野さんの第一声がこれだった。

「なにがだ?」

「あの子は何者ですか? なにをするために、あなたといるんです?」

「なにをって…なにもしないが。一緒に暮らしているだけだ」

「ということは、将来あなたの右腕にするために捜してきた。というわけではないのですね?」

「違う。瑠奈はオヤジの女の娘だ。オヤジには邪魔だったんだろう。俺に押しつけて置いていったんだ」

「そうですか…」

「で? どうなんだ、あいつは」

「天才…とまでいいませんが、普通の人間でもありません。これを見てください」

 神野さんが、ノートパソコンのディスプレイを俺に示した。

「…これがどうした?」

 瑠奈がやらされたテストの採点結果らしいが、俺にはなにがなんだか分からない。

「ここですよ」

「だから、これがどうしたってんだ。俺にわかるようにいってくれ」

「ここに『164』と書いてありますね」

「あぁ」

「これは知能指数です」

「…高いのか?」

「高いですよ。普通の人間は90から100といったところでしょう。ボクの知る限り、知能指数160以上なんて人間は、数えるほどもいません。ちなみにボクは142です」

「…神野さんより、瑠奈のほうが頭が良いってことか?」

 マジか? 確か神野さんは、国立大学の大学院を出ている。弁護士の資格も持っている(持っているだけだと、本人はいっているが)し、俺の知る限りで一番頭が良い人間だ。

 その神野さんより、瑠奈のほうが知能指数が上とは…。信じられない。

「まぁ、単純にそういうことではありませんが、そうですね…『才能』もしくは『可能性』は、あの子のほうが上です。ダイアモンドの原石とでもいいましょうか。これからどういう生活を送り、教育を受けるかによって、あの子は『なんにでもなれる』と考えてください。科学者だろうが、数学者だろうが、弁護士だろうが、なんにでもです」

 可能性。

 瑠奈の可能性。

 未来を選べるほどの才能。

 神野さんがいうからには、本当のことなんだろう。

 瑠奈には、栄光を掴み取れるだけの才能がある。

 俺にはない。

 俺は、俺の程度を知っている。諦めているわけじゃないけど、納得はしている。

 嫉妬は…していない。

 だけど俺は、少し戸惑っている。

 なにが瑠奈にとっていいのか、どうすることが瑠奈にとって幸せなのか、俺には分からなかった。

 

「お前、なにかやりたいことないのか?」

 夜。俺は瑠奈に訊いた。

 訊く以外、なにもできなかった。

「…ないです。今のままでいいです」

 一週間経過したが、瑠奈と俺の距離はそう縮まっていない。瑠奈は俺に距離を置いて接しているし、口調も王様とでも会話しているかのように丁寧だ。

「なら、大人になったらなにになりたい?」

「……」

「なんでもいい。いってみろ」

「…お花屋さん…です」

「花屋? お前、花好きなのか?」

「は、はい…好きです。きれいだし、いい匂いがしますから…」

 花屋。

 科学者にでなれる(らしい)才能を持っているのに、花屋になりたいだって?

 変な話だ。

 でも、俺は笑わなかった。いや、笑えなかった。

 瑠奈がそれを望んでいるのなら、それでいいと思った。

 なんにでもなれる。

 なら、花屋にだってなれるはずだ。

 それに、なんだか瑠奈には似合っているようにも感じた。

 小さな花屋で働く瑠奈。上手く想像できないが、大人になった瑠奈が花を抱えている姿が脳裏に浮かんだ。

「花屋か。それもいいな」

「あ、はい…ありがとうございます。でもあたしは…」

 そこで言葉は途切れたが、続く言葉は想像できた。

『あたしはお兄さんの物ですから、お兄さんのいうことなら、なんだっていう通りにします』

 瑠奈がまだ、「あたしはお兄さんの所有物」という考えを捨てていないことは、行動や言動で分かっていた。

 こればかりは、俺がなにをいおうとも変わらないらしい。

 時間が必要だと思う。

 時間が経てば、瑠奈だって分かってくれる。

 なんだってこいつは、すごく頭が良いんだから。

 大丈夫だ。

 瑠奈は分かってくれる。

 だから、今はなにもいわない。「違う、そうじゃない。お前は俺の物なんかじゃない」そういえば、瑠奈を困らせることになる。

 この一週間で、俺は瑠奈の性格が少しだけど理解できた。

 瑠奈は真面目で、真っ直ぐだ。

 自分はここに住まわせてもらっているのに、俺に対してなにもできていない。申し訳ない。自分にできるのは、俺に忠実であること。おとなしくいうことを聞くこと、我が儘はいわない。自分から主張はしない。なにも求めたりしない。

 そして…「あたしはお兄さんの所有物」であることを、忘れたりしない。

 これが俺の理解した、瑠奈が考えていること。

 とても十歳の子供が考えることとは思えない。

 頭が良いからというのは理由にならないような気がする。元々の性格もあるだろうが、瑠奈がそういう考え方をしなければならない生活をしていたということが大きいと思う。

 それがどういう生活だったのか、詳しくは分からない。

 最初の二日間に聞いた話だけで十分だ。

 そして俺が、瑠奈を『幸せ』にしてやりたいと思っていること、それを忘れないこと、それさえ分かっていればいい。

 俺は人並みの頭で、瑠奈が『幸せ』になれる方法を考えればいい。

 それしか、俺にできることはないのだから。

 

     4

 

 瑠奈がこの界隈では名門として知られている女子校の小等部に入学して、一ヶ月程が経過した。

 まだ瑠奈は、俺の所有物であるという考えを忘れてはないようだ。しかしじょじょにではあるが、俺たちの距離は縮まってきているようにも感じる。

「あ、あの…」

 それは夕食も終わり、俺がリビングでテレビを観ながらコーヒーを飲んでいたときだった。

「どうした?」

「お、お願いが…あるんですけど…」

 お願い…?

 こいつが、俺に?

「な、なんだ? いってみろ」

「…我が儘なのは、わかってるんですけど…」

 我が儘とか、そんなことはいい。

「だからなんだ?」

「あっ…その、学校で…お友達が…」

「友達? 友達できたのか?」

「は、はい」

「そうか。よかったな」

「はいッ。よかったです」

「…で?」

「そのお友達が、遊びに来たいって…だから…ここに連れて来てもいいですか?」

 俺はこの言葉で、瑠奈との距離が縮まったと感じたのは、俺の錯覚だったと思い知らされた。

「…なにいってんだ? お前」

「あッ。ご、ごめんなさい…だ、ダメです…よね。ごめんなさい…」

「違う。ここはお前と俺の家なんだから、そんなこと俺にことわる必要ねぇっていってんだよ。連れてきたきゃ、勝手に連れてくればいいんだ」

 そのくらいは、もう理解していると思っていた。

「で、でも…」

「でもじゃない。お前頭いいけど、バカだな」

「そ、そうです…か?」

「あぁバカだ。まだわかってないのか? お前は、お前のしたいようにすればいいんだ。友達を家に連れてくるくらい、俺にきかなくてもいい。どんどん連れてこい。この家広いんだから、十人でも二十…はちょっと多いか…まぁ二十人でもいい。ここに、詰め込めるだけ連れてきていい」

「…あ、ありがとうございますッ」

「だ・か・らッ。礼なんかいう必要ないっていってんだろ」

「で、でも…」

「いいか、その良いけどバカな頭によく叩き込んでおけ。ここは俺とお前の家だ。俺だけのものでも、お前だけのものでもない。二人の家なんだ。だから、お前が悪いことじゃないって判断したなら、なにをしてもいい。俺はそのくらいには、お前を信用している。友達を連れてくるのは悪いことか?」

「違う…と、思います」

「だったら勝手に連れてきて、俺に「友達」だって紹介すればいい。いや、別に俺がいなければ、俺が帰ってきてから「友達が遊びにきてた」っていえばいいんだ。わかったな?」

「はいッ。ありがとうございますッ。嬉しい…本当に…嬉しいです…」

 その言葉の最後は、涙でかすれていた。

「なに泣いてんだ? だからお前は、バカっていわれるんだ」

 そういいながらも、バカは俺の方だと思った。勝手に瑠奈は理解してると思い込んで、なにも言葉にはしなかったから。

 言葉にしていえばよかったんだ。

 そうすれば、瑠奈は分かってくれる。

 時間が解決する?

 ホント、バカだな俺は。

 他人の考えてることなんて、分かるわけないじゃないか。

「うっ…そ、そうですね…くすん…あたしって、バカですね…」

 これからは、思ったこと、瑠奈にしてほしいことは言葉にしていおう。

「バカはお互い様だ。俺もバカだからな。だから、お前がどうしたいのか判断に迷うことがあったら、ちゃんと俺にいえ。バカ同士で考えよう」

 瑠奈はなにもいわずに泣いている。

 俺は泣いている瑠奈の頭に手を置いた。

 小さな頭だと思った。

 そして俺が手を頭に置いても、瑠奈がイヤがる素振りを見せなかったことが、すごく嬉しかった。

 

 その日から俺は、瑠奈との会話を意識して多くした。休日には一緒に遊びに行ったり、買い物に行ったりもした。

 瑠奈の口調は丁寧なままだが、それでも確実に壁は小さくなっていると感じる。

 先日、瑠奈は六年生になった。五年生の終わりには家庭訪問なるものがあり、いかにも教師ですという感じの、お堅いオバサンが家に来て、瑠奈の成績についてなんだかんだといっていた。要するに、「素晴らしい」ということだった。

 当たり前だ。瑠奈の頭がいいのは知っている。今さらあんたにどうこういわれることじゃない…と思ったが、そんなことをいって瑠奈の印象を悪くするのもバカらしいので、適当に肯いておいた。

 そして事は、六月に入って最初の火曜日に起こった。

「親父が死んだ?」

 早朝、俺たちの家に神野さんがやってきて、「社長がお亡くなりになられました」と告げたのだ。

「はい」

「…いつ? どうして…?」

「昨夜未明。殺されました」

「殺され…」

 親父は悪いヤツだから、殺されてもおかしくない。だが…。

「犯人は社長に恨みを持つ者だと思われますが、まだ動機は分かっていません。しかし実行犯、二十歳ほどの青年ですが、彼はそれからすぐ自殺しました」

 親父が死んだ。殺された。

 そう聞かされても、俺は動揺していない。息子として冷たいとは思うが、事実がそうだから仕方ない。

「…親父の、今の女はどうした? 一緒に殺されたのか?」

「いいえ。彼女は行方不明になっています。犯人、もしくは犯人たちの仲間だったと、私たちは考えています」

 どうする? 瑠奈になんと説明する?

 お前の母親は、俺の親父を殺して逃げた。

 ハッ! んなこといえるかッ。

 俺は親父が殺されたことよりも、瑠奈のことのほうが気がかりだった。俺自身、瑠奈の母親はろくでもない女だと思っているが、瑠奈にとってはたった一人の母親だ。

「そのことは、瑠奈には絶対にいうな」

「そんなことよりも、あなたはどうなさるおつもりです」

「俺?」

「そうです。社長の後を継ぐおつもりですか? それとも、会社は手放しますか? 今日にでも、副社長がコンタクトしてくると思います。副社長は、会社を自分の物にしたがっていますから」

 クソッ…俺はどうすればいい?

 俺としては、無理してまで会社を継ぐ必要はないと思う。継いでも副社長、堺兼次の傀儡になるだけだ。俺には、堺兼次に対抗できるほどの力がない。堺は、親父同様食えないヤツだ。世間知らずの俺が、堺を押さえ込むことができるとは思えない。

「堺に会社を譲ったとして、俺にはどのくらいの金が入ってくる?」

「推定ですが、税金を納めても四億ほどは」

 神野さんは即答した。すでに計算してあったということだ。俺が会社を譲ると考えていたのだろう。

 四億…それだけあれば、俺と瑠奈が暮らしていくには十分過ぎるほどだ。

「神野さん。あんたはどうすればいいと思う?」

「あなたがなにを大切とするのかで、答えは違います。もしあなたにとって、あの子が会社よりも大切なら、素直に副社長に会社を譲ったほうがいいでしょう。副社長は恐ろしい人です」

「堺が瑠奈になにかする可能性がある…ってことか?」

「そういうことです。可能性というよりは、確信ですが」

「会社を譲れば、なにもしないか?」

「なにかをする意味がありませんから。副社長は恐ろしい人ですが、バカではありません」

「…そうか。だったら、あんたに任せてもいいか? 俺には、たぶんなにもできない。俺はバカだからな」

「あなたがそういうのであれば、任せていただきます」

「あんたはどうするんだ? あんたは親父の子飼いだった。堺にとっては邪魔になるんじゃないか?」

「そんな心配は無用です。こう見えても、私はあなたのお父様の下にいた男です」

 自分のことは自分でできる…ってことか。半人前に心配される必要はない。言外にそういっていた。

「そうだな。すまない」

「いいえ、構いませんよ。それにしても、あなたは変わられましたね」

「そうか?」

「えぇ。あの子が来てから、あなたは見違えるほど成長なされた。落ち着きも出てきた。もし社長の下で三年ほど勉強ができていたら、あなたはいい後継者になられたでしょう」

「そうでもないさ。俺は、親父の仕事が嫌いだった。養ってもらってたくせに、生意気ないいぐさだけどな。それに、金も残してもらったのに」

「まぁ、それは気にすることはありません。あなたは恵まれていた。それだけのことです」

「簡単にいうんだな」

「簡単なことですから。人は生まれながらにして平等ではありません。恵まれている者もいれば、当然恵まれていない者もいる。それが当然なのです。あなたは金銭に恵まれていた。そういう『力』を持って生まれてきたのです。あの子が、類い希な知力を持って生まれてきたのと同じです」

 そうだろうか? どこか納得できなかった。

「納得できませんか?」

 顔に出ていたのだろうか?

「でしたら、社長の遺産はあなたのお好きにすればいい。寄付するとか、街でばらまくとか、そうすることであなたが納得できるのなら…ですが」

 それから俺は、二週間ほど慌ただしい日々を過ごした。瑠奈には、なにも告げなかった。いや、告げられなかった。

 俺の口座には四億三千万ほどの現金が、一度に振り込まれた。堺がそれほどの現金をどう工面したのかは分からない。

 だが、俺が思い悩むことでもない気がした。

 そして俺と、堺の会社とは、なんの関係もなくなった。

 

     5

 

 十月。

 親父が死んでから、五ヶ月ほどが経過した。瑠奈の母親は行方不明のままだ。そして俺は、瑠奈に親父が死んだことも、瑠奈の母親が行方不明になっていることも話してはいない。

 俺は一月ほど前から、花屋でバイトを始めた。働くなんて初めてのことだ。

 働かなくても十分に金はあるのだが、遊んで暮らしていると瑠奈に示しがつかないような気がしたからだ。

 将来瑠奈と一緒に花屋をすることにでもなれば、なにかの役に立つだろうと考えて、どうせ働くのならと花屋でバイトすることにした。

 バイトは週四日。午前九時から午後六時まで。働いてみると、花屋は思ったより重労働だった。花の管理は面倒くさいし、なにしろ花の名前を憶えるのが大変だ。俺は、花になんて全く興味なかったしな。

「帰ったぞ」

 家に入ると、夕飯だろう、いい匂いがした。

「おかえりなさいです」

 パタパタというスリッパの音と共に、キッチンのあるダイニングから瑠奈が顔を出した。

「あの…もうすぐ夕ご飯できますから」

「あぁ。悪いな、いつもお前にまかせきりで」

「い、いいえ…当たり前のことですから」

 俺はダイニングへ入り、俺は夕飯の準備が整うのを、テレビを観ながら待った。

 瑠奈は台所に立ち、手際よく料理をしているようだ。

 ふと、瑠奈に目を向けた。

 その視線に気づいたのか、瑠奈も俺を見た。

 なんかこいつ、大きくなったな。

 瑠奈と一緒に暮らし始めて、もうすぐ一年になる。いや、まだ一年にしかならないっていったほうがいいのか?

 なのに俺は、瑠奈がいなかった頃、自分がどんな生活をしていたか忘れかけている。それほど、瑠奈との生活が当たり前になっていた。

「あの…どうなされました?」

 そんなことを考えながら、俺は瑠奈を見つめていたようだ。瑠奈は戸惑ったような顔をしていった。

「いや、なんでもない」

「そ、そうですか? あの、夕ご飯できましたから。すぐに盛りつけします」

 俺は「手伝おうか」といおうと思ったが、邪魔にしかならないような気がして止めた。

 

 夕飯を食べ終わると瑠奈は、いつもすぐに食器を洗い始める。

「おい。少し休んだらどうだ」

 いつもはこんなこといわないのに、無意識に俺はいっていた。

「えっ?」

「い、いや。お前も食べたばかりなんだから、少しくらい座ってテレビでも観ればいい」

「は、はい。でも、すぐに終わりますから。それに、お皿が汚れたままだと、落ち着かないです。ごめんなさい」

 ごめんなさい。

 瑠奈の口癖だ。瑠奈はまだ、一日に最低三回はこの言葉を俺に向ける。その度に俺は、胸を締め付けられるような気がして、なんともいえない気分になる。

「そ、そうか」

 俺はテレビに目を向けた。

 面白くもなんともないバラエティが映っていた。別に観たくもなんともない。ただこうしていなければ、間が持たないだけ。

 瑠奈が食事の後かたづけをしているとき、なぜだか俺は瑠奈の側にいなければならないように感じる。

 自分の部屋に戻る気になれない。

 もしかしたら、こうして俺がいることは、瑠奈にとっては迷惑なことなのかもしれない。瑠奈は、未だに俺に対して壁を作っているし、過度に俺のことを気にしている。

 俺を、「お兄さん」と呼ぶのも変わっていない。

 他人行儀で、なんだかイヤだ。

 だが俺も、「おい」とか、「お前」とか、そんなふうに呼ぶことが多い。「瑠奈」と名前で呼ぶことは、ほとんどないといっていい。

 …壁を作っているのは、俺も同じだ…。

 不意に、そう思った。

 そうか。

 俺がこの壁を壊さない限り、瑠奈も壁を壊せないだろう。瑠奈はまだ子供で、大人の俺に遠慮している。

 俺からもっと瑠奈に近づけば、瑠奈だってきっと。

 …都合のいい考えだな。

 瑠奈が俺をどう思っているかなんて、瑠奈にしか分からないのに。

 でも俺は、俺たちは…。

「瑠奈」

「はい? なんですか」

「こっちにこい」

「で、でも」

「いいから」

「は、はい」

 瑠奈を水道の水を止め、エプロンで手を拭きながら(なんだか、変にオバサンくさい仕草だ)台所を離れて、テーブルを挟んで俺の向かい側に座った。

「なぁ、おま…瑠奈」

「はい」

「ここで、俺と暮らすのはイヤか?」

「えっ? いいえッ」

 首を大きく振る瑠奈。

「ホントか?」

「はいッ。イヤじゃありません」

「だったら…」

 だったら…

 どういえばいい?

 俺はなにを訊きたい?

 決まっている。

 でも、どう言葉にすればいいのか分からなかった。

「瑠奈…俺は…」

 俺はお前と…

「ずっと…」

 こうして…

「俺たちは…俺たちは、なんだ? 一緒に暮らし始めてもう一年だ。なのに、俺たちの関係は曖昧なまま。瑠奈にとって、俺はなんだ? なぁ、教えてくれないか」

「そ、それは…お兄さんは、あたしの…あたしの…」

 沈黙。

 続かない言葉。

 困らせたいわけじゃない。でも、訊きたかった。

 俺にとって瑠奈は、はっきりいえる。

 離したくない存在だ。ずっと、一緒にいてほしい。恋とは違う。俺は瑠奈の恋人になりたいわけじゃない。抱きたいとは思わない。瑠奈がまだ子供だからとか、そういうことじゃなくて…。

 でも、一緒にいたい。

 妹?

 そうだ。

 俺は瑠奈に対して、『妹』を見ている。

 守りたい。幸せにしたい。笑っていてほしい。

「…俺は、瑠奈の本当の『兄』に、『お兄さん』…」

 違う。「お兄さん」なんて、そんな他人みたいなのじゃない。

 だったら…

「『お兄ちゃん』になりたい…と思っている」

 そして

「家族に…なりたい。瑠奈と、本当の家族に」

 これが俺の本心。

 俺の壁は壊した。今、この言葉で。

 だから瑠奈…お前は、どうしたい?

 教えてくれ。

 本心を聴かせてくれ。

 お前の、本当を知りたい。

「イヤ…か? 俺みたいなのが、『お兄ちゃん』なのはイヤか?」

 瑠奈はうつむいて、首を横に振った。

「イヤじゃありません…でも…」

「でもはいい。教えてくれ、瑠奈はどうしたい? それが知りたいんだ」

「あ、あたしは…」

 ギュッとエプロンを掴んで、なにかを堪えるような声で。

「あたしも、なりたい…です」

 顔を上げ、真っ直ぐに俺を見る瑠奈。

 かわいいと思った。

「お兄ちゃんって…呼びたいです。家族にしてほしいです。本当の家族に、兄妹に…でもッ!」

「だからでもはいいッ。それが、お前の…瑠奈の本心なんだな?」

「…はい」

 抱きしめたいと思った。俺と瑠奈を遮るテーブルが、すごく邪魔だった。

 俺は立ち上がりテーブルを避け、瑠奈を思い切り抱きしめた。

「きゃッ…く、苦しい…です」

「あ、あぁ…悪い」

 力を緩めたが、瑠奈は離さなかった。

 俺の胸に顔を埋める瑠奈。少しミルク臭かった。子供の匂いだ。

 だけどこれが、俺の妹の匂い。

「ありがとう。瑠奈」

 思わず言葉が漏れた。

「…うん。お兄ちゃん…」

 そういうと、瑠奈は俺にギュッとしがみついてきた。

 

 こうして俺たちは、家族になった。

 

     そして始まる新しい今日

 

「おはよう。お兄ちゃん」

 家族になった夜。俺の部屋で、俺たちは同じベッドで眠った。もちろん、変な意味はない。本当に、眠るだけ。

 それで分かったことだが、瑠奈は結構寝相が悪い。俺は顔に腕を乗せられて、なんども目が醒めるということがあった。

 覗き込むようにしていう瑠奈に、俺も「おはよう」と返した。

 瑠奈は恥ずかしそうに、でも本当に嬉しそうな笑顔をして、もう一度「お兄ちゃん」といった。

「なんだ? 瑠奈」

 意味もなく可笑しくなって、俺たちはしばらく笑い合った。

「あっ。朝ご飯つくらなくちゃ」

 ベッドを降りた瑠奈のパジャマは乱れていて、子供パンツが半分見えていた。

「キャッ」

 慌てて乱れを直す瑠奈。

「…見た…?」

「ばっちり」

「お兄ちゃんのえっちッ」

「なにいってるんだ。瑠奈の子供パンツなんか見ても、俺はなんとも思わないぞ」

「う、うん…」

 なにか納得できていない顔で、瑠奈は部屋を出ていった。

 しばらくそのままでいると、パタパタと聞き慣れた瑠奈の足音が忙しく聞こえてきた。朝食の準備を始めたんだろう。

 なんか、いいな。

 俺は思った。

『おはよう。お兄ちゃん』

 目が醒めたとき、隣から聞こえた声。

 安心した。

 すごく、幸せな気分になった。

「お兄ちゃーん。ご飯だよぉ」

 扉越しに呼ばれ、俺はベッドから抜け出し、ダイニングに向かった。

「あっ。もう、パジャマのままじゃない」

「…いつもそうだろ?」

「ダメなの。お兄ちゃんは、もうあたしのお兄ちゃんなんだから」

 意味不明だ。

「あぁ分かった。すぐに着替える」

「うんッ」

 俺が着替えてダイニングに戻ると、すでにテーブルには、トーストとサラダを中心にした朝食が準備されていた。

 俺の顔を見た瑠奈が、俺のカップにコーヒーを注ぐ。

 瑠奈はコーヒーが飲めない(らしい。まぁ、子供だからな)ので、自分のカップにはホットミルクを入れていた。

「いただきます」

 瑠奈の言葉に「あぁ」と返事を返すと、

「いただきますだよ。お兄ちゃん」

 こいつ…兄妹になったら、急に強気だな。

 …でも、それもかわいい…。

 俺って、兄バカか?

 まぁいい。兄バカで上等だ。とことん兄バカになってやるさ。

「いただきます…これでいいか?」

「うんッ。いいよ」

 これまでと同じ、二人での食事。でもこれまでとは、確実になにかが違っている。

「美味しい? お兄ちゃん」

「あぁ、美味い」

 ニコッと頬笑んだが、瑠奈はそれ以上なにもいわなかった。

 俺も無言で食事を続けた。

 一日の始まり。

 新しい毎日の始まり。

 これから始まる、家族がいる毎日の。

 俺がいて、瑠奈がいて、それだけで幸せな毎日。

 瑠奈も、俺と同じことを思っているだろうか?

 もぐもぐと口を動かす瑠奈を見ていると、俺は訊かなくてもその答えが分かる気がした。

「あたしも、お兄ちゃんと同じだよ」

 瑠奈は無言で、そういっている。

 これまでとは違う表情が、そう告げていた。

 俺たちの間には、もう邪魔な壁はない。昨日壊した。

 俺はかわいい妹を、かけがえのない家族を手に入れた。

 そして瑠奈には、出来は悪いが兄を、家族という場所をあげることができたと思う。

 でも大切なのはこれからだ。

 俺たちは、俺たちなりのいい関係を見つけ、作り、育てていかなかればならないと思う。

 俺が幸せでいられるように。

 瑠奈が、妹が幸せで、いつでも頬笑んでいられるように。

 それが、家族だから。

 俺が思い描いていた、望んでいた家族の形だから。


End
 

 

     
EVERGREEN NEXT『みかんの缶詰』

 

 男の子ってよく分からない。

 恐かったり、優しかったり…。

「うるさいッ! 女のくせに」

 酷い…だから男の子ってイヤ。

「…大丈夫? あぁ、ボクはなんともないから…」

 なんともなくないよ。だって、血が出てるよ…。

 なんなの、男の子って?

 恐いの? 優しいの?

 恐い子もいて、優しい子もいるの?

 でも、あたしにはみんな同じに見えるの。同じだって思えちゃうの。

 どうして?

 あたしがまだ子供だから?

「斉藤くんって、かっこいいよね」

「わたしは、小宮くんのほうがいいなぁ」

 あたしは、どっちでもいい。ううん、どっちも興味ない。だって、同じだもん。男の子なんて、みんな同じだもん。

 分からないの。

 あたしには、男の子が分からない…。

 分からなくちゃダメ?

 みんな同じじゃダメ?

 恋するって、どういう気分?

 マンガの中のヒロイン。振り向いてくれない先輩。気持ちが伝わればいいと思う。ヒロインの女の子の気持ちが、先輩に伝わればいいと思う。

 でも、それはマンガの中の物語。

 あたしは、ニセモノの恋を感じているだけ。

 ホンモノの恋って、どういう気持ちがするの?

 あたしは知りたい。

 

 でも心のどこかであたしは、知りたくないとも思っている…。



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