破滅の天使 破滅の天使編 序章・T

 

     彼方の音

 

 深緑の樹々で形成された森が、朝の陽光を反射して輝いている。その森に沿ってはしる街道を、一人の十五、六歳ほどの少女が歩いていた。

 大陸中でも珍しい黒い髪を背中まで伸ばして、これまた珍しい、髪と同色の黒い瞳をしている。背中には荷を入れているであろう革の袋を背負い、見るからに旅人であるが、そのわりにはやけに軽装だ。

 いくらこのランド聖王国の治安が善いとしても、女の子の一人旅が安全なほどではない。

「あと、どれくらい歩くのかしら?」

 少女は革袋から一枚の紙片を取り出して広げた。どうやら地図のようだ。少女は立ち止まってその地図をしばらく眺めると、がさつな動作でまた革袋に戻した。

「やっぱり分からないわ。もう、アリアってばどこに行っちゃったのかしら?」

 仕方なさそうに呟くと、少女は再び歩き始めた。

 少女の名は、ノエル・シェラリール。とてもそうは見えないが、ランド聖王国と国境を接する、ジーズ公国の第一太陽神殿である、ジーズ太陽神殿の巫女である。

 彼女は今、双子の妹アリア・シェラリールと共に、ランド聖王国の国都グランドに存在するランド太陽神殿に向かう途中なのだが、アリアとは二日前にはぐれてしまっていた。

 グランドの太陽神殿に行けば、アリアとも無事に合流でできるだろう。とノエルは考えているのだが、それにはまず、この街道がグランドに続く街道ではないことに気づく必要があった。

 

「あれ? もしかして迷ったかも」

 もしかしてではない、迷っているのである。街道を歩いていたはずが、いつのまにか、ノエルは森の中にいた。

 実は、森に入ったとき少し変だなと思ったのだが、そのまま歩き回るうちに完全に迷ってしまったのである。戻ろうにも、自分が今いる場所がどこなのか分からない。

「変だな? 森なんて載ってないじゃないの」

 再び地図を確認するノエルだが、見ている場所が全然違う。ノエルは気づいていないが、地図にはちゃんとこの森も載っている。

 既に高く上った太陽が短い草に覆われた地面にモザイクを創り出し、薄暗い森に光りを射していた。

「困ったな…」

 辺りを見回し、どっちに行こうかと迷っていたとき、ノエルの目に小さな光が映った。

「あれっ? 水の聖霊だ」

 ノエルはその光、水の聖霊が自分に近寄って来るのを、不思議に思いながらも立ち止まって見ていた。

 普通、聖霊というのは人前に姿を現すものではない。太陽神殿の巫女であるノエルでさえ、聖霊を見るのはこれが三度目であった。神殿での修行がなけれは、ノエルも水の聖霊とは分からなかっただろう。

 そんな珍しい聖霊が自らノエルに近寄ってくるのである、確かにこれは不思議なことであった。

「なに?」

 目の前まで来た聖霊に向かって、ノエルは尋ねた。

 ノエルは、聖霊が恐れるべき存在でないことを知っている。だから聖霊に対してこれほど無警戒に接することができたのだが、普通の人間はこうはいかないだろう。もっとも、聖霊を見ることができる人間の方が、絶対的に少ないのだが。

「助けて…ほしい?」

 聖霊の声を聞き、ノエルは聖霊の言葉を繰り返した。

「えっ、なに? ごめんなさい、あなたの言葉よく分からないの」

 ノエルには、聖霊の言葉を聞き取ることが得意ではない。これは生まれつきの力で、修行でどうにかなるものではないのだ。

「よく分からないけど、分かったわ」

 ノエルは聖霊の言おうとしていることを、何となくだが理解したらしい。

「要するに助けてほしいってことね」

 それでは、あまりにも要しすぎである。これでは聖霊が何を言ったのか、さっぱり分からない。実際ノエルに理解できたのは、これだけであったのだが。

 聖霊はノエルが自分の言ったことを、本当に理解したと思ったのか、ノエルを先導するように移動し始めた。ノエルは聖霊の後に続き、森の奥へと進んでいった。

 

「すごい」

 聖霊がノエルを連れてきた場所は、大きな湖であった。それで、水の聖霊がこんな森の中にいたのであろう。

 湖に降り注ぐ陽光を遮る樹々はなく、湖に満たされた水は、真上からの陽光を乱反射して輝いていた。

「あっ、待って」

 湖に見惚れていたノエルを置いて、聖霊は進んでいく。その先には、若い女性を象った石像が、湖を見守るようにたっていた。古い物なのか所々風化していたが、ノエルにも出来の良いものであることは分かった。

 聖霊はその石像の前で止まっていた。

「これなに?」

 ノエルが聖霊に尋ねる。

 石像であることは分かるが、何故こんなものが森の中の湖にあるのか分からなかった。

「水神ミールさまの神像?」

 そう言われれば、と思うのだが、ノエルの知る水神の姿と随分違っていた。ノエルの知る水神ミールの姿は、女性ではあるがもう少し年齢が上であった。しかし、地方によって神像の形が違うこともよくあることなので、ノエルはあまり気にしなかった。

「で、これがどうしたの?」

 聖霊は光の量を多くして、何か言っているようである。が、やはりノエルには能く分からない。

 その時、ノエルは湖から嫌な気配を感じ湖を見た。

 それは不意に現れた。

 聖霊っ? いや、違う。それは水の聖霊と形は似ていたが、明らかに気配が違っていた。邪悪なもの、危険なものとノエルは感じた。

 湖の中心辺りから現れたそれは、形を変えながらゆっくりとノエルに近づき、ノエルの目の前に来た時には、長い髪の男の姿になっていた。

「太陽神の巫女か」

 男はそう言った。確かにノエルは太陽神の巫女であるが、とても見ただけで分かるものではない、それらしい格好をしているわけではないのだ。少しぬけた普通の旅人にしか見えないはずだ。

「あなた誰っ!」

 ノエルは男に向かって誰何した。普通なら恐れて何も言えなくても仕方が無い、しかしノエルは普通じゃなかった。男に対して恐怖は感じていたが、それを表面化させることはなかった。

「わたしはジズ。魔道士ジズ・クライス」

 男の名に、ノエルは聞き覚えがあった。

「…ウソ?」

 魔道士ジズといえば、ランド十英雄にも名を列ねる勇者である。聖者グライム、聖剣士ユイ、建国王レヴァリス、月神の巫女エミルと共に、邪獣を滅ぼした勇者だ。しかしそれは、今から四百年以上前の話である。ノエルが信じられないのも無理はない。

「嘘ではない、太陽神の巫女よ」

 再び男、魔道士ジズは言った。

 だが、やはりノエルには信じられない。四百年前の勇者が、突然湖から姿を現すなんてことが、信じられるわけがない。

「ん…? 水の聖霊か」

 ジズが聖霊に眼を向けた。ノエルが聖霊をかばうようにジズの前に立ちふさがる。その瞬間、ノエルは後方に吹っ飛ばされた。

 ノエルは咄嗟に受け身をとったが、それは完全に成功したとは言えなかった。しかし、ノエルのダメージは少ない。ノエルは、見た目よりも体術に優れている。

 すぐに体勢を立て直し、ノエルは聖霊を見た。どうやら無事のようだった。

「ほう」

 ジズはそのノエルの様子を見て、驚嘆の声を発した。

「あなた誰!」

 同じ質問をノエルはジズに向けたが、それに対する答えはなく、その代わりに、さっきよりも強力な衝撃がノエルを襲った。

 が、ノエルはそれを避けた。ノエルには見えているのだ、ジズと名乗る正体不明の男の攻撃が。ノエルにとってそれは、黒い空気の波のようなものだった。

 魔法と、そう呼ばれる力だ。現在では失われつある前時代の力。もちろんノエルに扱えるものではない。この男が魔道士ジズであれ、違う何かであれ、ノエルの敵う相手ではない。

 逃げなきゃ。でも何所に、どうやって?

「あれをかわすか、太陽神の巫女よ」

 ジズが嬉しそうに言った。しかし、ノエルには嬉しくない、あまり過大評価されては困る。はっきり言って、さっきのはマグレなのだから。

 その時、ノエルとジズの間に小さな光が現れた。水の聖霊にまたもや似ているが、その光から感じる力は、聖霊の比ではなかった。

「ナーシスか、自分から出てくるとはな」

 ジズが現れた光に言う。その眼には、もうノエルは映っていなかった。

 チャンス! 今だ、逃げよう。

 ノエルがそう思ったとき、辺りが光りに包まれた。その瞬間、考える間もなく、ノエルの意識は光に溶けた。

 

「…ここ、どこ?」

 気が付いたとき、ノエルは見たことない場所にいた。そこは水の中のようだが、水特有の抵抗感もなく、呼吸もできているようだった。

「水の聖霊界です」

 不意に向けられた言葉にノエルが振り向くと、そこにはノエルと同い年ほどの、裸の少女が立っていた。しかしその少女の身体は半透明で、後ろが透けて見えていた。

「先ほどは助けていただき、ありがとうございました」

「…もしかして、あなたさっきの聖霊さん?」

「はい。そうです」

「そうか、無事だったんだ。良かった」

 ノエルは素直に喜んだ。

「そうだ、あの男は? 魔道士ジズとか名乗った」

「ナーシスさまが、押さえておられます」

 ナーシス、そういえはあの男もそんなこと言っていたわね。しかし、ノエルにはその名に覚えはなかった。

「しかし、長くは持たないと思います」

「あの男は本物なの?」

「本物と言われましても、よくわかりませんが、確かに魔道士ジズと呼ばれていた存在です」

 本当なの? だが、聖霊が嘘を言うわけはない。ノエルは信じざるをえなかった。

「でも、何故あたしこんな所にいるの?」

 こんな所とは、水の聖霊界のことである。聖霊は普段、それぞれの聖霊界に住み、人間のいる世界に出てくることは希である。それに、人間が聖霊界に入れることはまずない。伝説の中に、聖霊界に入った人物の話しは幾つかあるが、それはあくまで伝説であって、ノエル自身がその伝説の世界にいるとは納得しきれないでいた。

「ナーシスさまが転送なされたのです」

 ナーシスさまねぇ…。

 考えてみたが、やっぱりノエルは知らなかった。

「そのナーシスさまは、あたしに何をさせたいわけ?」

「あいつを、消滅させてほしいのです」

 あいつ、あいつって…。

「まさか魔道士ジズのことっ?」

 正解、その通りである。

「無理よ、あたしにできるわけないわ」

「できます、あなたならできます」

 根拠はあるの? と思ったが、ノエルは口にしなかった。と言うより、できなかった。

「時間がないのです、覚悟を決めてください」

 精霊はなかなかに強引だ。

 と、その時。

「ナーシスさまっ!」

 一人の女性が聖霊界に現われた、その女性こそナーシスであった。

「ノエル・シェラリールですね?」

「…そ、そうよ…」

「これを」

 そう言ってナーシスが差し出したものは、一振の剣だった。両刃の長剣である、全長は一メートル弱ほどだろうか、かなり大きいものだ。

「これは?」

 剣を受け取り、ノエルは問う。その剣は見た目ほどの重さはなく、ノエルでさえ扱えるように感じられた。

「聖剣『シエン』です」

 ノエルは剣を落としそうになった。その名はいくら何でも、ノエルは知っていた。

 この世界に七振在るといわれる、聖剣のうちの一振である。そのなかでも『シエン』は、聖剣士ユイが邪獣にとどめをさした聖剣として有名であった。

「なっ、何でそんなものがここにあるのよッ?」

「私がユイから預かったのです。ここなら、誰の目に付くこともないでしょうと」

 ナーシスは平然と言った。

 何言ってるの? 聖剣士ユイさまって言ったら四百年前の勇者じゃない。でも、あの男が魔道士ジズだとしたら、そういうこともあるのかも…。

「しかし、少し甘かったようです。まさかジズがこれを奪いに来るとは、考えもしませんでした」

「それで、この聖剣であたしに魔道士ジズを倒せって言うわけ?」

「そうです」

 ナーシスが言う。

「できるわけないじゃないッ。あなたがやればいいじゃないの」

「私には無理なのです。何故なら、私には実体がない。もし在ったとしても、私は聖剣士にはなれないのです」

「あたしならなれるとでも言うの」

 まさか、あたしが聖剣士に? 確かにその疑問はもっともだ、ノエルに聖剣士が勤まるとは思えない。

 だが、

「そうです。あなたには、聖剣士たる資質があります」

「ウソ?」

「確かにあなたの世界では無理でしょう、まだそれほどの力はありません。ですが、ここでなら、今のあなたにも十分に使いこなすことができるはずです」

 あたしが聖剣士に? 本当になれるの…。

 ノエルの腕の中で、『シエン』が輝いたように見えた。

「来ますっ!」

 聖霊の叫びと共に、ノエル達がいる空間の上部が割れた。まるで、ガラスが割れるかように。

 

「見つけたぞ」

 空間を割り現れたのは、やはり魔道士ジズであった。

「聖剣を渡せ」

 ジズが聖剣を持つノエルを見る。その眼には、感情が映っていない。

「ジズ、聖剣をどうするつもりです」

 ナーシスがジズに詰め寄る。

「決まっている、クランを再びこの地上に召喚するのだ」

「ク、クラン。邪獣を復活させるというのですか」

 どういうことだ、魔道士ジズは邪獣を滅ぼした勇者のはずだ。そう、邪獣は滅ぼされたはずなのだ。

「そういうことですか、これではっきりとしました」

 ナーシスは、ジズの答えに何か掴んだようだが、ノエルには目の前で起こっていることがまったく分かっていなかった。

「まちなさいよ、勝手に話しを進めないで。分かるように話してよ」

「太陽神の巫女よ、お前に理解する必要はない」

 ジズの答えは冷たいものだが、ジズにとってノエルはただの部外者だ。一々説明する必要はないのであろう。

「ノエル・シェラリール、聖剣を!」

 ノエルは覚悟を決め、ジズに向かって聖剣『シエン』を構える。

 と同時にノエルの身体が動いた。ジズに向けて剣先を振り下ろしたのである、それは刹那の瞬間のことであった、その動きは剣士、いや剣聖の動きといっても過言ではない。ノエルにこんな動きができるはずもなく、間違いなくそれは聖剣の力であろう。だが、ジズはその攻撃をさけていた。かすり傷一つ負ってはいない。

 しかしこれで、ノエルに聖剣を使うことができるという自信が宿った。

「何だ、結構簡単ね」

 不敵に言ってのける、さっきまでビビっていたとは思えない。

 刹那、黒い波がノエルを襲った。それを聖剣で切り裂き、ノエルはジズとの間合いを一気に詰め、ジズの懐に剣を突き刺した。

 剣先がジズの腹部に埋まった。ジズの傷口から、黒い液体のようなものが流れ出し、聖霊界を汚す。

 いけるっ!

 ノエルがそう思った瞬間、ジズが笑った。それまで全くの無表情だった顔に、笑みが浮かんだのだ。それは、勝利を確信したものの笑みだ、邪悪とおぞましさを宿した、最悪の笑みだった。

 何が起きたのか、ノエルには分からなかった。ただ自分の腕が聖剣から離れ、両腕の肘から先が無くなっていることを、視覚だけが認識していた。

 そしてノエルの意識は、闇に落ちた。

 

 ノエルは、闇に包まれた意識でそれを見ていた。

 黒い雲に満たされた空を覆い隠すような巨大な狼、違う狼ではない、巨大な狼のようなものだ。

 それは背中に四枚の大きく歪な翼を持ち、空を舞っていた。これこそが、邪獣クランであった。

「ユイっ!」

 ユイと呼ばれた少女を見て、ノエルは驚いた。

 アリア? それとも…あたし? ユイと呼ばれた少女は、ノエルとその双子の妹アリアに瓜二つであった。ユイは邪獣を追い、自らも空へと上がる。魔法の力である、魔法により邪獣を追うユイの腕には、聖剣『シエン』が握られている。

 ユイが飛び去った地上には、六つの人影があった。

 ジズだ! それにナーシスさんも。

 そこには、魔道士ジズ、そしてナーシスの姿もあった。ノエルには分からなかったが、そのほかの四人は、聖者グライム、建国王レヴァリス、月神の巫女エミル、そして歴史に名を残さないもう一人の聖剣士、ルーウェンであった。彼ら全てが未だ若い、青年の域を出ていないであろう。ルーウェンに至ってはユイよりも幼い、本当に未だ少年であった。

 この光景は、勇者達が邪獣と戦った時のものなのである。

 そして、場面は変わる。

 

「なぁ、ジズ。オレ達の仕事はもう終わった、この先のことなんて、先の人間が何とかするさ」

 そう言ったのは、聖者グライムであった。廃虚と化した街を二人は歩いていた。

「レヴァリス王子…いや、今はレヴァリス王か。ランド王国を新しく名前を変えて、ランド聖王国の王になったんだったな。あいつに任せておけば今のところは安心だ、だがなグライム、邪獣はいつの日にか必ず復活する。お前にも分かっているはずだ」

「分かっている。だが、そんなことはいつか分からないぞ? 何百年、何千年先のことだろう。オレ達でも何とかなったんだ、その時はその時の人間が何とかするさ。オレ達が心配することじゃない」

「ユイとルーウェンはどこかに行ってしまった。聖剣も、もはや力を失った」

「また、元通りになるさ」

「オレは、お前ほど楽観できない」

 ジズの声には、苦悩が滲んでいた。

「ジズ、ニードで馬鹿をやってた頃覚えてるだろ? ナーシスがいて、カルア、ドーリ、ミフィ、ハッシュ、あの頃の連中はみんな死んじまった。残っているのはオレとお前だけだ」

「すまない、グライム。もう決めたんだ」

「ジズ…」

「心配するなよ、少し眠るだけだ。ヤツが、邪獣が再びこの世界に現れるまで」

 

 それからどの位の時が流れたのだろう。

 暗闇。一欠片の光もない、完全な闇。そこに、声だけが響いていた。

『我は再び地上に戻る。そして今度こそ世界を闇に変えてくれる、生あるものを全て殺し尽くし、殺戮と絶望を与えてやろう』

「クラン、お前の思うようにはさせない」

『我を滅そうとする魂よ。そなたの眠り此所で終わる、我の使役となりて聖剣を』

「クランっ!」

『聖剣を』

「お前を、今度こそお前を消滅させてやる!」

『聖剣を、そして我は再び蘇る』

 そして、闇が音さえも呑み込む。

 

 ノエルはその意識を、未だ闇の中に漂わせていた。

「結局どういうこと、ジズは邪獣に操られいるだけなの?」

 ノエルにしては、能く理解したと言えるであろう。しかし、それが分かったところで、ノエルに打つ手はない。

『新しき担い手よ』

 ノエルの意識に声が響いた。

「誰?」

『我はシエン、聖剣と呼ばれる存在』

 誰何の問いに、声はそう答えた。

『新しき担い手よ、我をクランの手に渡してはならぬ』

「そんなこと言われても」

『我をクランの手に渡してはならぬ』

「だからそんなこと言われても、どうしたらいいかあたしには分からないわッ」

『我をクランの手に渡してはならぬ』

「もう、分からない人ね! 人の話し、ちゃんと聞きなさいよ」

 これは、いつもノエルが言われている言葉である。ノエルも自分がこの言葉を、他人に使うとは思っていなかったであろう。

 しかし、ノエルの言葉に対する応えはなく、そのかわり、ノエルは意識が急速に浮上するのを感じた。

 

「ノエル・シェラリール、聖剣を!」

 意識が戻ったとき、ノエルは聖剣を腕に、ジズと向かい合っていた。時間が戻っている、ノエルの腕は肘から先も繋がっていてた。

 良かった、何だか能く分からないけど腕が在る。

 そう思いながら、ノエルはジズに集中した。そして、ジズの後方に四枚の翼を持った獣の姿を見た。さっきは、そんなものは見えなかった。

 邪獣だ、闇の中で見たものとは比べものにならないほど小さい。普通の狼ほどの大きさだった。

 あれね、多分!

 その瞬間ノエルは動いていた。ジズが放つ黒い波を切り裂き、獣に向けて詰め寄った。しかし、それを阻むようにジズが立ちはだかる。

 予想通り!

 ノエルはジズの頭上を飛び越え、獣に空中から切りかかった。その一撃は獣の右側の翼二枚を切り裂き、獣の咆哮が聖霊界にこだまする。

 まだよ! ノエルは着地すると同時に、獣の首筋目掛けて聖剣を振り下ろした。紙を裂くような手応えで、獣の首が飛んだ。

 

「感謝する、ノエル・シェラリール」

 あの後、獣は溶けるように消え去り、魔道士ジズの呪縛は解かれた。

「結構、呆気なく倒せたわね」

 伝説の英雄に対して、ノエルの口調は軽い。

「あれは邪獣の本体ではない、それに『シエン』の力は完全に復活していたようだ」

 あなたのおかげですと、ジズは言わなかった。だがノエルにもそれは分かっていたので、追求はできなかった。

 そう、全ては聖剣『シエン』の力であった。はっきり言って、ノエルはただ剣を握っていただけだある。勝手に身体が動いたのだ、しかしノエルだからこそ、それだけの動きができたのだが、もちろんノエルがそれに気づくことはなかった。

「だが、これで邪獣が復活することは、随分遅くなるのは間違いない」

「だったら、今からやっつけちゃえばいいじゃない」

 短絡的思考である、それができるのなら、既にやっているだろう。

「それは無理なのです、邪獣の本体がいる場所に近づくことはできません。ヤツがいるのは、あなた達が神界と呼ぶ場所なのです」

 そう言ったのはナーシスである。

 神界とは、その名の通り神々が住んでいる場所である。しかし、そんな場所に普通人間が入り込めるわけがない。巫女であるノエルでさえ、本当にそんな場所が存在するのか、疑問であったのだから。

 しかしナーシスの話しを聞く限り、神界は実在するらしい。ノエルには能く分からなかったが、ノエル達が生活する世界とは別の次元にあるらしい。聖霊界は別の次元にあるわけではなく、少しズレた場所にあるだけなので、人間にも行き来は可能なのだそうだ。

「じゃあ、どうするの? このままにしておくの」

「そうだ、仕方がないのだ」

「うーん、まっいいか。そのために聖剣があるんだろうしね」

 ノエルらしい答えであるが、その聖剣を持ってまた自分が戦うとは考えていない。

「あなたはこれからどうするの、また眠る?」

「いいや、オレでは邪獣に敵わないことは分かった。また今回のようなことを、仕出かすわけにはいかない。もう少し考えてみることにする」

「それがいいわ、あたしも、もうあなたと戦う気はないわ。今度は殺されちゃうかもしれないし」

 冗談になってはいない、実際にその通りになる可能性の方が高い。

「そうだ、あたしそろそろ行かなくちゃ」

 ノエルはナーシスに聖剣を渡した。

「置いてゆくのですか」

「だってそれ、聖剣士さまのものでしょ? それにあたしには、ちゃんと使えないんじゃないの? あたしが持ってても誰かに盗られちゃうよ」

「そうですね、これはユイから預かったものですもの。ですが、この聖剣はあなたのものでもあるのです、必要になったときは取りにきなさい」

「そうね、必要になったらね。でも、そんなことない方がいいよね」

 ノエルは微笑む。

「その通りですね」

 ナーシスも、そう言って微笑んだ。

 

「それでは、気をつけておいきなさい」

 聖霊界から戻ったノエルは、湖の辺にいた。石像が光りを受けて白く輝いている。ノエルには長く感じていたが、聖霊界にいた時間は大した時間ではなかった。

 未だ、高く陽光が差し込んでいる。

「じゃあ、そろそろ行くね。じゃあね、ナーシスさん、ジズさん、それに、えっと」

「フィーリーです」

 ノエルが聖霊の名前を言いよどんでいるものを見て、ナーシスが続けた。

「フィーリー。さよなら」

 

「あれ、ここどこ?」

 やっと森を抜けたのはいいが、ノエルはまた道に迷っていた。すでに日は落ち、辺りは暗い。

「ナーシスさんに道聞いてくればよかった」

 無駄である。例え聞いていたとしても、ノエルがその道を間違わずに進むとは、とても思えない。

「もう、アリアってばどこ行っちゃたのよ!」

 その声を聞くものはいない。空に輝きだした星だけが、ノエルの進む道を照らし出していた。


End


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