破滅の天使 ランド聖王国編 序章・T
麗しの姫君
「またですか?」 と、初老の男に、その青年は声を返した。青い髪を短く刈り込み、髪よりも濃い青の瞳をした、長身で体格のいい青年だ。 「わかりました、私が必ず姫を連れて戻ります」 青年は男に頭を下げ、その場をあとにした。 あのわがまま姫が、今度はどこに行ったんだ。とは、流石に声に出さないが、青年の頭の中では、何度も繰り返された言葉であった。 青年の名はタクト・ハーカリー。ランド聖王国の王室に仕官する、二十歳の若き魔道剣士である。 魔道剣士とは、魔道士と剣士の資格を共に兼ね備えるものだけに許された称号で、ランド聖王国四百十三年の歴史の中でも、王室に仕えた魔道剣士の数は十人にも満たない。その中でも、タクトは最年少の魔道剣士であった。 そのタクトの仕事は、ランド聖王国の二の姫、ラン・シャルシーナ・グ・ランド付きの武官である。タクトは国王夫妻に対しては、最高の敬意と絶対の忠誠を誓っていたが、シャルシーナ姫に対しては、ただの出来損ないのわがまま姫としか思っていなかった。 あれほど素晴らしい国王夫妻から、どうしたらあんなわがままな姫君がお生まれになるのだ、とも思っていた。 シャルシーナ姫は現在十四歳。王妃と同じ紅い髪の美少女だが、城内よりも外ですごすことを好み、毎日と言っていいほど城下街、即ちランド聖王国の国都グランドに一人で繰り出していた。いくらグランドが平和な街だといっても、彼女は一国の姫君である。危険がないとはいいきれない。今もシャルシーナは、午後の授業を抜け出し行方不明になっていた。そしていつものように、タクトに捜索の役目が回ってきたというわけだ。
国都グランドはランド太陽神殿を中心に、四方に大きな通りが十字にはしっている。北方には王宮、南方にはグランドの正門、西方には月神殿、東方には時間神殿がそれぞれの頂点に位置している。 その王宮から太陽神殿に続く通りを、タクトは歩いていた。午後の陽光が、優しくグランドを包んでいる。人通りも多く、そこに軒を構える商店も賑わっていたが、これまでにシャルシーナの姿を見ることはできないでいた。 「仕方がない、また大神官どのに頼みに行くしかないな」 タクトは太陽神殿への道を急ぐ。タクトの言う大神官どのとは、太陽神殿の大神官ウル・ホースのことである。ウルとは神官につけられる総称で、神官は普通名前に姓をもたない。しかし、巫女と呼ばれる女性は別である。同じ神殿に仕えながらも、神官と巫女とは違う組織に所属する存在だからだ。だからと言って、神官に女性がいないわけではない、巫女と呼ばれる存在が特別なのだ。
「おや、魔道剣士どの。また姫さまがお姿をくらませたのですか?」 タクトが神殿の正門に顔を見せるなり、顔見知りの神官が尋ねてきた。 「お恥ずかしいかぎりです」 「大神官さまは、今来客を受けております。もう少しお待ちいただけますか」 「はい、それは当然のことです」 タクトは腰に吊るした愛剣を神官に手渡し、神殿の中に入った。神殿の中での帯剣は許されていない。 神殿の中は光を十分に取り込める構造をしているため、外にいるのと変わらない明るさが保たれている。これは太陽神殿ならではのことで、普通の民家は勿論、他の神殿もこれほど光りを取り込める構造ではない。
「大神官どの」 タクトのいる広間に、大神官ウル・ホースが姿を見せた。ホースは四十代前半の白髪の男である。そのホースに続くように、一人の少女が姿を現した。 黒い髪を肩の辺りで切り揃えた、一五、六歳ほどの可愛いらしい雰囲気の少女だった。一見して、タクトはその少女が巫女だと分かった。巫女だけが着けることの許された、白いマントを着用していたからだ。しかし、それよりもタクトの目を引いたのは、少女の髪の色と、その同色の瞳の色だった。 この大陸では、黒い髪の人間はとても珍しいのである。それにこの少女は、瞳の色までもが黒い色をしていたのだ。黒い髪を持つものは魔力を持って生まれる確率が極めて高く、<三大陸>中捜しても数えるほどしかいないと言われている。 「このかたは?」 「彼女はジーズ太陽神殿の巫女、アリア・シェラリールです」 ジーズ太陽神殿は、ランド聖王国と西の国境を接するジーズ公国に存在する。 「御初に御目にかかります、アリア・シェラリールでございます」 「わ、私はランド王室付き武官、タクト・ハーカリーと申します」 そう頭を下げるアリアに、タクトも自己紹介をして頭を下げる。 「ハーカリーさまでございますね」 そう言って、アリアは微かに微笑んだ。何て愛らしい方なんだ、とタクトは思った。だが、シャルシーナ姫とは全く違う愛らしさだ、とタクトは思わない。タクトにとっては比べるほどのことではない。なぜならタクトはシャルシーナ姫を綺麗だとか、愛らしいだとか思ったことがないからだ。 しかしシャルシーナは、タクト以外の国民誰もが認めるほどの美姫である。アリアの玲瓏とした愛らしさとは違い、初夏の陽光のような、生命感に富んだ愛らしさなのである。 「それで、またシャルシーナ姫のことですか」 アリアに見惚れていたタクトに、ホース声をかけた。 「はい」 タクトの返事は情けなさそうに聞こえた。アリアのしっかりとした態度に、自分の姫の体たらくぶりが情けなくなったのである。 「では、探してみましょう」 ホースは目を瞑り、精神を集中させる。自分が見知っている人物の所在を、魔力によって知ることができるのだ。これができるのは、ランド広しといってもホースだけである。タクトがホースを訪れたのも、この力をあてにしたからだ。 「どうやら、ユラ区にいらっしゃるようですね」 ホースが示したユラ区とは、主に平民が住む住宅街で、ここからだと西南西の方角にあたり、距離としては歩いて十五分ほどである。 「そうですか、ありがとうございます。お手数をおかけしました」 タクトはホースに礼を言うと、早速神殿を後にしようとした。 「ハーカリーどの、よろしけれは巫女シェラリールをご一緒させてあげてくだい。街中を見てみたいそうなのです」 ホースが立ち去ろうとしたタクトに言った。 「えぇ、それは構いませんが、よろしいのですか? 私は姫を連れ戻しに行くだけですよ」 「はい、ハーカリーさまがよろしければ是非」とアリア。 タクトは少し迷った。アリアにシャルシーナを会わせたくなかったのである。身内の恥を見せるように思ったのだ。 しかし、アリアの期待に満ちた顔を見てしまうと、断るわけにはいかなかった。 「わかりました、それではまいりましょう」 「ありがとうございます」 嬉しそうにそう言ったアリアの声を聞いて、タクトは断らなくて良かったと思った。
「シェラリールどのは、何故グランドに来られたのですか」 太陽神殿を出て、二人はユラ区に向けて脚を進めた。 「アリアで構いませんわ、ハーカリーさま」 「そのようなわけには参りません」 別に構わないのだが、タクトは女性を名で呼ぶことに慣れていなかった。結構奥手なのである。そのせいで二十歳になっても、女性と交際したことは一度もなかった。 「ではタクトさま。ふふっ、これでよろしいですか?」 アリアは結構積極的だ。だがこれは効果的であった。何故ならタクトは、シャルシーナ以外の女性に名で呼ばれたことがなかったからである。その上、シャルシーナはタクトのことを、タクトと呼び捨てにするのだ。『タクトさま』この一言だけで、タクトがアリアに夢中になってしまっても仕方がない。 「いえ、その…、分かりました。ではアリアどのは、何故グランドに」 アリアと口にするとき、タクトは緊張を表に出さないように意識する必要があった。 「はい、神官長さまの言い付けで、大神官さまに御会いしなければならなかったのですわ」 「そうですか。ですがジーズ公国からですと、グランドには歩いて一月はかかりますね。馬車を御使いになられたのですか?」 タクトがこう聞いたのにはわけがある。この時代、馬車は高価な移動手段だったのである。いくら巫女とはいえ、そう簡単に利用できるものではない。しかし、アリアに従者がいるようにも見えなかった。 「いいえ、歩いて参りました」 「えっ、御一人でですか?」 いくら平和な時代といえども、女性、しかも少女である、一人旅が安全なはずがなかった。 「いいえ、途中まで双子の姉と一緒でしたのですが、八日ほど前にはぐれてしまいまして、それからは一人で参りました。姉は先に到着しているものと考えていたのですが、未だ来ていないようです」 が、その言葉には余り心配の色はなかった。 「御一人で? それは危険ではありませんでしたか」 「いいえ」 「それに姉君が行方不明とは、早急に御探しした方がよろしいのでは?」 「姉のことですから、心配はないと思います。また、道に迷っているのでしょう」 「私が御探しいたしましょうか」 「大丈夫ですわ、御心配には及びません。姉のことは、わたしが一番よく分かっております」 そこまで言われれば、タクトも引き下がるしかなかった。アリアの心証を悪くしたくないと、この男なりに思ったからである。 この時点でタクトの頭には、シャルシーナのことはほとんど残っていなかった。というより、忘れてしまいたかったのであろう。しかしこういう男が幸せな時間を過ごせることは、そう永くはないと相場が決まっていた。 「ねぇ、姫さま。今日は何して遊ぶ?」 タクトは見てしまった。 タクト達と通りを挟み、四、五人の小さな子供を引き連れて歩いているのは、シャルシーナ姫その人であった。 見なかったことにしよう。シャルシーナを探していたはずのタクトだったが、今ではアリアの傍らで、至福の一時を過ごすことの方が重要なのではないかと、そんなことを考えていた。 だが、本当にそんなことができるのなら苦労はしていない、タクトはそんな性格ではないのだ。自分の責務を蔑ろにするようなことは、この青年にはできなかった。 「姫さまっ!」 その呼びかけに、シャルシーナが振り向いた。 「げっ、タクト」 「げっ、タクトではありません。それに何ですか、仮にも一国の姫君が『げっ』とは」 仮にもではない、実際に一国の姫君なのである。しかし、仮にもと言われた方はそれを気にするでもなく、その眼はタクトの隣、即ちアリアに向けられていた。 「タクト、女連れとは偉くなったじゃない。それに見たところ巫女どののようね。タクトが巫女どのを連れて街を練り歩いているとは、明日で世界が終わるんじゃないの」 その表情は、タクトをからかうネタを仕入れたことで、嬉々としていた。確かに、一国の姫君のすることではない。 「そっ、そんなことはどうでもよいのです」 「あら? その人、どうでもいい人なんだ?」 シャルシーナの顔は、新妻をいびる姑のように、すごく楽しそうに見えた。 「それは違いますっ! アリアどのはどうでもいい人ではありませんっ!」 「そう、アリアさんっていうんだ」 役者が違う、タクトがシャルシーナに口で勝てるとは、到底思えない。 「はい、ジーズ太陽神殿の巫女、アリア・シェラリールと申します。御目に掛かることができまして光栄ですわ、ラン・シャルシーナさま」 ランド聖王国には、一人の王子と、三人の姫がいる。王太子シャルマール、一の姫シャルレーナ、二の姫シャルシーナ、三の姫シャルフィーナである。 タクトは姫としか口にしていなかったが、なぜアリアに彼女がシャルシーナと分かったかというと、大神官ホースが『またシャルシーナ姫のことですか』と言ったのを、アリアは覚えていたからだ。 「姫! ビギル先生が御探ししております、城に御戻りください」 ビギル先生とは、シャルシーナ専属の教師のことである。 「仕事サボってデートしてる人間に言われたくないわ」 誤解なのだが、タクトに言い返すことはできない、ある意味事実なのだから。しかしシャルシーナにも、タクトが女連れなのには何かわけがあると分かっていた。そうでなければ、堅物のタクトが公務の時間に女を連れているわけがない。タクトが言い返せないような言葉を選んで言ったのである。 「それは誤解ですわ、タクトさまは姫さまを御探しいておられたのです」 アリアが助け船を出す。しかしシャルシーナには面白くない。せっかくタクトとからかうチャンスなのに、そんな分かりきったことでそのチャンスを壊されたくないのだ。 「タクトさまねぇ…。タクト、あんたその巫女どのとどういう関係なの? どうでもいい人じゃないんでしょ?」 「ラン・シャルシーナさま、それは…」 「巫女どのには聞いてないわ」 アリアの言葉を遮り、シャルシーナが言う。 「タクト、答えなさい」 黙っているタクトを見て、シャルシーナが笑みをうかべた。いつの間にか辺りには人だかりができていて、野次馬の視線がタクトに向けられている。 「さあ、答えなさいタク…」 と、その時。シャルシーナの動きが止まった。
「シャルシーナ、何をしているのです」 声はタクトの直ぐ後ろから聞こえた。後ろを見るまでもなく、タクトにはそれが誰なのか分かった。 「何をしているのです、と聞いているのですよ」 「お兄さま!」 タクトの後ろに現れた人物、それは王太子シャルマールであった。切れ者として国内外に知られる王太子は、現在タクトと同じ二十歳。中肉中背で、髪の色は国王と同じ薄い金色。シャルシーナがもっとも苦手とする人物である。 「答えなさい、シャルシーナ」 その声は優しいながらも、タクトには心強く、シャルシーナにはこの世の終わりのように聞こえていた。 野次馬がその場に膝を折り、頭を下げる。シャルシーナとは違い、シャルマールが街に降りることはほとんどない。国民も次期国王に対して礼を損なうわけにはいかないし、シャルマールには人望があった。この行動は当然である。 勿論タクトもその場で膝を折っている。シャルマール本人と護衛の兵士数人、シャルシーナ、そしてアリアだけがその場で立っている。シャルシーナの連れていた子供は、いつの間にかいなくなっていた。 ここで、アリアが膝を折らないのは無礼にはならない。巫女は神以外には膝を折る必要がないからだ。それにアリアはこの国の国民ではない。 「お兄さま、それはタクトが…その」 「それでは答えになっていませんよ。シャルシーナ、君は自分の立場というものを自覚する必要があります。さあ、城に戻りますよ、君も一緒に来るのです」 「…はい」 「タクト、シャルシーナが迷惑をかけたようですね。後で言い聞かせておきますから、君はその巫女どのを、きちんとエスコートしてさしあげるのですよ」 「はっ」 「ではシャルシーナ行きますよ」 その言葉を、シャルマールは最後まで言いきることはできなかった。 突如、彼の左肩を後方から矢が貫いたのだ。 崩れ落ちるシャルマールを、警護兵が受け止めた。 「シャルマールさまっ!」 「お兄さまっ!」 タクトとシャルシールの声が、同時に発せられた。
タクトはシャルマールを警護兵に任せ、矢が放たれた方角に駆け出した。その動きは人間の動きを超越していた、魔力を使ったのである。魔力により、一時的に身体の機能を爆発的に高めることができる、これこそがタクトの持つ力であった。 しかしこれは、魔法と呼ばれる力ではない。魔法とは火、水、土、風、時間の力を操ることであり、タクトの使った力はそれらどれにも属していないからだ。魔法を操るには、とても強い魔力が必要なのである。 タクトは、賊をその目に捕らえていた。細い裏通りを四人の賊が走り去ろうとしている、タクトはしんがりの賊を一刀のもとに切り伏せ、反す刀でもう一人の右腕を切り裂いた。 コイツらあのときの生き残りか! タクトは賊の姿に見覚えがあった。 それは一年ほど前のことである。シャルマールの指揮の下、ランド軍が盗賊団の討伐を行ったのだ。ほとんどの盗賊を捕縛、死滅させることができたが、運良く逃走することができたものもいた。 これは、その盗賊団の生き残りの仕業だったのだ。 タクトが裏通りを貫けたとき、賊の数は一人になっていた。裏通りを貫けるまでに、タクトは三人の賊を切り伏せていた。やはり、魔道剣士の名は伊達ではない。 タクトは残りの賊に追いつき、剣を振り下ろす。しかし、賊は振り向きざまにそれを剣で受けた。 何っ! タクトは魔力により、超人的な力を使っている。そのタクトの剣撃を受けることができるなど、尋常の技ではない。 振り向いた賊の顔を見たとき、タクトは戦慄を覚えた。 「きさま、ロッドっ!」 それは、かつてタクトが剣を交えたことのある相手だった。ロッド・イザーグ。盗賊団のリーダーだった男で、一年前の討伐も、この男を捕縛することが目的だったと言ってしまってもいい。しかし、それを実現することはできなかった、いま一歩のところで逃げられてしまったのだ。そのときタクトはロッドに完敗をきっしていた、殺されなかっただけ運がいいといった負けかただった。 「あの時の小僧か」 とはロッドは言わなかった、その代わりにロッドの蹴りがタクトを襲った。それをまともに受け、タクトは仰け反った。 ロッドの剣がタクトに振り下ろされる。避けられない、咄嗟にタクトはそれを剣で受けた。運良くそれは成功したが、肩を少し切り裂かれてしまった。 だが痛みを感じている暇はない、タクトはロッドと距離をとり次の攻撃に備える。だが、次の攻撃はロッドからのものではなかった。タクトの通り貫けてきた裏通りから、矢が放たれたのだ。タクトはその矢を剣で打ち下ろす、その瞬間ロッドは一気にタクトとの間合いを詰め、剣を振るった。 しまった! カランッ。 タクトは一瞬にして剣を戻したが、ロッドの剣撃を受け止めることができず、剣はタクトの腕を離れ地面に転がる。 とその時、 「タクト!」 声がした瞬間。 タクトとロッドの間に一本の矢が走った。 シャルシーナであった。 シャルシーナはタクトが賊を追った後、自分もタクトに続いたのである。裏通りでタクトに矢を放った賊を後ろから切り伏せると、その弓を奪い矢を放ったのだ。 一歩間違えれば、矢はタクトに当たっていた、それほどの軌道をとって矢は流れていった。 虚を衝かれ、ロッドはタクトから離れた。それを無駄にすることなく、タクトは自分の剣を拾った。 「姫、お逃げください!」 タクトが叫ぶ、しかしシャルシーナがタクトの言うことを聞くわけがない。 「助けてもらっておいて、その言葉は何よ!」 タクトは、バカが! と思ったが口にはしなかった。 仕方ない、こうなったら最後の手段だ! タクトは剣を構え直しロッドに向かう、ロッドもタクトに向かうが、シャルシーナにも気を配っているのは明らかだ、そこにタクトの付け入る隙があった。 「姫!」 タクトの声に、シャルシーナが矢を放つ。ロッドはその矢を体を少し動かすだけで避け、一気にシャルシーナに向かって詰め寄った。だが距離がある、ロッドが動くと同時にタクトも動いた。 速い! まさに刹那であった。タクトはその一瞬に賭け、力を最大に使ったのだ。しかしこれには危険が伴った、失敗すれば自分の命はともかく、シャルシーナも危険にさらすことになる。しかもそれだけではない、成功してもタクトの身体がもたないのだ。これは、死すら覚悟しての賭けだった。
「タクト!」 賭けは、タクトが勝った。 タクトの剣はロッドの胸部に突き刺さり、ロッドの背中から剣先が覗いていた。声もなくロッドは崩れ落ちる、タクトの剣はロッドの心臓を貫いていたのだ。しかしロッドに覆いかぶされるように、タクトも地面に崩れた。 タクトは消え去ろうとする意識の中で、死を覚悟した。一瞬、彼の名を呼ぶシャルシーナの声を聞いたような気がした。 意識が途切れる瞬間、タクトが心の中で見たのは、アリアの笑顔ではなく、シャルシーナの怒っている顔だった。
「…クト、タクト、タクト、タク…」 夢か…。いや、これが死後の世界か、嫌なとこだな、シャルシーナ姫の泣き顔を見せられるなんて、どうせならアリアどのの笑顔が見てみたいものだ…。 そして、タクトの意識は再び途切れた。
「…タクト…」 タクトの目に映ったのは、またもやシャルシーナの泣き顔であった。 何だまたか、姫の泣き顔なんてもう見たくないよ。と思った時、タクトは身体を突き抜ける痛みを意識した。その痛みに、意識が収束するようにはっきりとした。 「タクト! 気が付いたのかっ」 夢じゃない? 死後の世界じゃないのか。 「…ひ…め…?」 「タクト…良かった…タクト…」 生きている、そうタクトは確信した。タクトがいたのは、ベッドの上だった。 瞬時に記憶が蘇り、タクトはあの光景を思い出した。そう、シャルマールが崩れ落ちる光景だ。 「姫、殿下は、シャルマールさまは御無事ですか」 その声は、はっきりと聞き取れるほどのものではなかったが、シャルシーナには分かったようだった。 「あぁ、お兄さまは無事だ。巫女どのが、アリアどのが助けてくれたのだ」 タクトは安心した。シャルマールにもしものことがあれば、ランド聖王国は確実に多大な打撃を受けることとなっていたであろう。 「アリアどのが…?」 それはこういうことであった。アリアは、傷ついた生物を回復させることのできる力をもっていたのだ。 巫女だけが使える奇蹟の力である。 巫女には様々な奇蹟の力が宿っている、個人によってその力は異なるが、アリアの奇蹟の力がこの力だったのだ。 勿論、その力は完璧というものではない、しかしかなり優れた力で、多少の傷なら一瞬で完治させることができた。 だが、シャルマールを襲った矢には毒が塗られていたので、それを取り除き、シャルマールを完全に回復させるのに、アリアは丸一日を費やしていた。その効果もあって、シャルマールは既に公務にも復帰している。 「殿下が御無事でよかった。それに姫も御無事でなによりです」 「タクトのおかげだ、ありがとう」 その言葉に、タクトは少し不気味さを感じた。シャルシーナに感謝の言葉をかけられるなど初めてのことだったので、何か裏があるのではないかと思ったのだ。 「はぁ、光栄でございます」 タクトの立場上、こう応えるしかない。 「今、巫女どのを呼んでくる。ちゃんとお礼を言うのだぞ。巫女どのがいなけば、お前は死んでいたかもしれないのだからな」 シャルシーナは室内を出て行く、それと入れ替わりに看護のものが入ってきた。実はシャルシーナが、「タクトの看護は自分がする」と言って追い出していたのだが、タクトにそんなことが分かるはずもなかった。分かっていれば、やはり、ここは俺がいた世界とは違うのか? と疑問に思ったことであろう。
「三日もですか」 タクトがロッドを討ち取ってから、意識が回復するまでに三日の時間が過ぎていた。 「ですが、さすがに魔道剣士さまですね。普通の方なら確実に命を落としていますよ」 アリアはタクトの横たわるベッドの傍らに腰掛け、タクトの状態を見ていた。アリアは、医師の称号をも持っているのだ。アリアの歳で医師の称号を持つということは、アリアがとても優れた知識を持っていることを意味する。 「アリアどののおかげです、本当に感謝します。殿下はもちろん、私などまで助けて頂けるなどとは、何とお礼を申し上げてよいやら」 「いえ、そんなことはいいのです。タクトさまをお助けすることができて、あたしは嬉しいですわ」 「そうだ、姉君はどうなされたのですか」 タクトは、気恥ずかしくなり話題を変えた。だが、確かにそのことも気になっていたのだ。 「はい、姉とは昨夜合流することができました。やはり、道に迷っていたらしいのですわ」 「それはよかった、安心しました」 「はい、御心配おかけしましたわ」 そう言ってアリアは微笑んだ。タクトもそれにつられてか、自然に笑みがこぼれた。 「タクト! お前は病み上がりなのだ、少し静かにしていろ」 タクトとアリアの和んだ雰囲気に、シャルシーナが割り込んだ。何を怒っているんだ、とタクトは思ったが、逆らうと後で何をされるか分からないので、素直に従うことにした。 「では少し眠ります。やはり、まだ疲れているようですので」 「そうなさいませ、もう心配はありませんから」 アリアが優しく言う。 「そうだ、お前は寝ていろ」 シャルシーナが、やはり何故が怒ったように言う。 少し開けられた窓から、静かに風が入り込み、タクトの頬を優しく撫でながら、室内を満たしていった。 緑の香りを感じながら、タクトは瞳を閉じた。次に目を開けた時にもシャルシーナが隣にいて、自分の顔を覗き込んでいるのだろうか。と、そんな予感を感じながら。 End |