破滅の天使 外伝・V

 

     風のみえる場所

 

     0

 

「リーン!」

 雨が、土の地面に染み込んだ大量の血を洗い流そうとしている。

 水滴がそのもの達の身体中を伝い、紅く染まった身体を清めようとしているようだった。

 しかし、新たな赤が地面に染み込んでいく、それを止められるものはいない、止めようとするものはいたが、無駄な足掻きだった。

 リーンと呼ばれた美しい女性も、数秒前まで右腕がつながっていた場所から、大量の血液を撒き散らし、地面に沈んだ。

『使役よ、滅ぼせ。それが主命』

 <彼女>の心には、その声だけが響いていた。

 自分が何をしているかは、分かっていた。

 人を殺しているのだ。

 ただそこに居る人を、そこに居るという理由で殺している。

 それが『主命』だから…。

「魔物が!」

 <彼女>に剣が向けられる。青い髪の青年が、<彼女>を殺すために剣を振るったのだ。<彼女>はその光景を見詰め、この人はさっきの綺麗な女の人の恋人なのかな、と思いながら、その青年に『意識』を向けた。

 そして青年の身体から、一瞬にして上半身がなくなった。

 <彼女>は不思議に思った。何故この人達は死ななければならないのだろう?

 『主命』だからだと、声は答える。

 そう『主命』だから、あたしはこの人達を殺さなければならない。

 『主命』…。

  だから…。

   あたしは…。

 

     1

 

「ねぇ、お父さん。今日はいい天気だね」

「そうだな、今日はいい天気だ」

 一人娘の嬉しそうな言葉に、父親は娘の金色の髪を撫でながら言った。

 ミラン王国の東に広がる森林は、緑の豊な場所で、多くの山菜や果実にも恵まれていた。今も朝の陽光を受けて、森林を構成する木々も、そこに流れる小川も光りに満ちている。

 その森林に近い、小高くなった丘に立てられた小さな家は、この親子が二人で暮らすには十分だ。しかしその丘は村から離れ、生活には少し不便ではあったが、親子が気にすることはなかった。

「お父さん。リア、森にダグの実取りに行ってくるね」

「あまり奥に行ってはだめだぞ」

「はーい」

 娘は元気よく返事をして、家の外に出て行った。その姿を見ながら父親は微笑み、自分も畑に向かう準備を始める。

「リアも大きくなったな。そうだな、あれからもう十年以上も経った、十年以上も……」

 父親はそう呟き、複雑な表情を浮かべた。四十代に差し掛かったばかりだと思われる父親の顔には、右目の上の辺りから頬にかけて刀傷が在り、その右目が潰れていることは見ただけで分かった。

 その父親の名は、ターリス・ブリド。十数年前に起こったニード戦役でその傷を負い、現役を退いた歴戦の戦士である。

 娘の名は、リアーナ・ブリド。ターリスの一人娘で現在十一歳。背中まで達する金髪は、癖もなく流れるように真っ直ぐに伸び、父親に似ない可愛いく小さな顔を、薄緑の大きな瞳が彩っている。

 新大陸暦四百十二年五月、二人の幸福を守るかのように、白い陽光が広がる世界を満たしていた。

「やった、いっぱいある」

 リアは目的のダグの実を見つけると、それを籠の中に次々と入れていった。見る見るうちにリアの持ってきた籠は、ダグの実でいっぱいになる。

 リアが摘みにきたダグの実とは、この季節各地の森で目にすることのできる、野苺に似た果実である。ダグの実が苺と違う点は、まず黄色い色であるということ、そして苺よりも格段に甘く、中心には大きな種があるというのが、その特徴である。

「よし」

 籠一杯のダグの実を抱え、リアは家に戻ろうと考えた。しかし、リアは自分が今いる場所が何所なのか分からなくなっていた。リアはターリスに注意されたにも関わらず、ダグの実を探して森の奥に入ってしまっていたのだ。

 太陽はまだ一番高く上ってはいないだろう。しかし森の中に差し込む光は少なく、薄暗い森にリアは急に心細くなった。

 どうしよう…お父さんに叱られる。

 リアは自分の置かれた状況を、完全に把握しきれてはいなかった。森で自分の位置を見失うということは、命にも関わる危険なことなのである。十一歳の少女のリアに、その危険性を理解するのは無理なことであるかもしれないが、幼い少女であるからこそ、その危険性が増すのである。

 リアは自分が歩いてきたと思われる方角に脚を進めた。だが、実際は更に森の奥に向かっていることに彼女が気づくはずもなく、ただやみくもに歩き回っているだけだ。

 そうだっ! 森で迷ったときには…えっと、どうするんだったっけ?

 リアは森で迷ったときの行動を、ターリスに指示されていたが、混乱しているためにか、どうしても思い出せなかった。

 ターリスが指示したことは、森で迷った時にはやみくもに歩かないで、樹の幹に生えている苔を調べ、苔の生えている方角に歩きなさい。ということだった。苔の生える方角は常に一定で、そのまま進むと森を抜けることができるからだ。

 森を抜けた先には小川があり、その小川を下流に沿って進むと、リアも知っている村につく、そこからなら、リアも自分の家に戻ることができるのだが…。

 

「ううぅ…お父さん。お父さ〜んっ!」

 薄暗い森に、リアの泣き声がこだましていた。先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声は、既にリアの耳にも、森の静寂な音の中にも聞こえてはいなかった。

 ここは、鳥さえも住み着かない場所なのだ。鳥だけではない、森の中に住む他の動物達もここにはいなかった。勿論、そんなことをリアが知るはずがない。そしてここが、森の動物達が近づかないほど、危険な場所だということにも。

「お父さん、ねぇ…返事してよぉ」

 リアの脚には幾つもの小さな傷が創られ、所々に紅い血が滲んでいた。それでもリアは歩き続けている、父親の待つ、自分達の家に帰るために。

「きゃっ」

 足元を覆う蔓に足を取られ、リアは転んでしまった。ずっと抱えていた籠が地面に転がり、辺りに黄色いダグの実を撒き散らす。

 膝が切れ、リアの白い脚を紅い液体がつたう。リアは直ぐに立ち上がると、籠もダグの実もそのままに、走り出した。何度も脚をとられそうになりながら、リアは走った。静寂が支配する、森の奥に向かって。

 

「リア? まだ帰ってないのか」

 太陽が真上の上り、ターリスが畑から戻っても、家の中にリアの姿がなかった。ターリスは嫌な気がした、娘に何かあったのではないか、森の奥に入ってしまったのではないか。

 ターリスのその想像は当たっている。ターリスの娘リアーナは、今このとき、森の奥で泣きながらターリスに助けを求めているのだが、その声は、二人の間に存在する物理的距離に阻まれ、彼に聞こえることはなかった。

 ターリスは悪い予感に動かされて、森に向かうために古いが手入れの行き届いた愛剣を手にした。元戦士であるターリスは、その愛剣に何度も命を救われている。しかしその剣をリアに触れさせることは、絶対にしなかった。リアに人殺しの道具を触らせることは、ターリスは禁忌だと感じていたからだ。

 ターリスは、リアが向かったと思われる森に急いだ。

 しかし、家を飛び出してしばらくもしないうちに、ターリスの行く手を阻むように、幾つもの影が立ち塞がった。

「ついに見つけだぞ、イザス・ブリド。いや、今はターリス・ブリドだったかな」

 影の一つがターリスに呼びかけた。

「…ロジ…か」

 ターリスがそう答えた瞬間、ターリスに向けて、多数の槍が向けられた、陽光を反射して、その矛先が輝く。

 ミラン王国の正規兵。

 影達はその姿をしていた。ターリスの、兵士達の動きが止まり、一陣の風が、そこにいるものの頬を撫で、彼方へと流れ去っていった。

 

     2

 

「外だ…」

 リアは、森の中を走り回るうちに、前方に明るくなっている場所を見つけた。リアはその光こそ、森の外への道だと思いそこに向かった。

 しかし、リアの目の前のに開けたのは、森の出口ではなかった。

 そこには大きなクレーターが存在していた。樹の生えないそのクレーターに上から光が射し、明るくなっていたのだ。

「違う…外じゃない」

 リアはその光景を見て、途方に暮れる。期待を持った分、その落胆は大きかった。

『我を求めよ、使役』

 と、そのときリアの頭の中に声が聞こえた。

「だれ?」

 リアは辺りを見回すが、人陰を見つけることはできなかった。

『我を求めよ、使役』

 二度同じ声、同じ言葉が聞こえた。

「だれかいるの? ねぇ…リアを助けて。外に、家に帰して」

 その言葉に、応答はない。沈黙がリアに応えた。

 不意に後ろから視線を感じ、リアは振り向く。

 その姿を見た瞬間、リアの身体が固まった。

 リアの直ぐ後ろで、黒い狼がリアを見ていたのだ。

 恐怖が急速にリアを支配する、いくらリアでも、狼の恐ろしさは知っていた。

 逃げなきゃ。

 リアは考えたが、リアが狼から逃げ切れるはずもない。それに、恐くて脚が動かなくなっていた。

 狼がリアに近づき、リアの血で汚れた脚を舐めた。恐怖で動くことができないリアに、狼が目を向け、その視線が絡まった。

『使役よ。そなたの願い、我が叶えよう』

 声が聞こえた瞬間。リアは声の主がこの狼であることが、何故か分かった。その視線に吸い込まれるように、リアの意識が闇色に沈んだ。

 

 新大陸暦四百年、ミラン王国で内乱が勃発した。

 ミランの北西部、ニード地区で独立を叫ぶ民衆がほう起したのである。

 ニード地区は暦が未だ大陸暦であった頃、ニード公国と呼ばれる国であったのだが、ニード公国で採掘される岩塩、広大な岩塩鉱の入手を目的としたミラン王国が攻め入り、ニード公国を征服したのである。

 それより、ニード公国はミラン王国の一部分となり、今にいたっているのである。

 そういった歴史的背景もあり、ニード地区では幾度も独立を望むクーデターが起こっている。

 新大陸暦四百年の内乱は、規模はそれほど大きくはなかったが、叛乱軍のリーダーが有能な人物であり、内乱はこれまでにないほど永きにわたった。

 年が改まり新大陸暦四百一年、ミラン王国軍は内乱を一気に終結させようと、軍を大挙として進軍させた。

 終わってみれば、王国軍の圧勝であった。叛乱軍の十倍に近い兵を送り込んだのであるから、これは当然の結果であった。

 しかし被害は大きく、ニード地区は人口を半減させたとも言われている。何故軍がこれほどの被害をもたらしたかというと、ほとんどは見せしめであった。ニード地区の国民に、ミラン王国の力を見せ付け、二度と叛乱を起こす気を起こさないようにさせたのだ。

 この戦いには、兵士としてターリス・ブリドも参戦していた。

 

「おやめください!」

 紅い血に染められたニードの街を炎が燃やし尽くそうとし、神々が住まう地「神界」までも届けと、黒い噴煙が空へと昇っている。

 ターリスは、いや、このときは未だ、彼はイザスという本名を名乗っていた。そのイザスは、目の前で繰り広げられる残虐な殺戮を、見てみぬふりはできなかった。

 彼の目の前で、生まれたばかりの赤子が殺されようとしている。その行動に及ぼうとしているのは、彼が守るべきミラン軍の大将で、国王ミランシャール八世の従兄弟にあたる、ウィリズという王族の一人であった。

「うるさい!」

 ウィリズがイザスを一括する。その側では、赤子の母親だと思われる若い女性が、兵士達に犯されながら、「リアーナ、リアーナッ!」と、赤子の名を叫び続けていた。

 イザスは、この畜生にも劣る行為を止める術もなく、ただ見ていることしかできないでいた。王族に反抗するということは、その場で切り伏せられてもおかしくないほどの行為なのである。

「殿下!」

 しかし、イザスは尚も進言した。このとき、死を意識しなかったわけではない、だがイザスには言わざるをえなかったのだ。

 このような行為を、太陽神がお許しになるはずはない。

 太陽神を信仰するイザスは、太陽神の教義を冒すことはできなかったのだ。『人は太陽、月、時間の元で一つであり、慈しみ合わなければならない』という言葉を。

 イザスはこれまでに何人もの人の命を奪ってきた、しかしそれは戦の中でのことであり、自分の大切な人達を守るために、イザスはその剣を振るったのだ。罪のない人を手に掛けたことは一度もないと、イザスは思っていた。それは事実ではあっても、真実ではなかったのだが、それはイザスも理解していた。

 イザスは自分の『正義』の中で生きてきたのであり、他人の『正義』はイザスの『正義』であるとは限らないのであるから。

 そして今、イザスの目の前の『正義』は、イザスがどうしても受け入れられない『正義』であった。

 

「追え!」

 気が付いたとき、イザスの腕の中には、リアーナと呼ばれた赤子が居た。

 はっきりと覚えているわけではない、ウィリズの剣が赤子に振り下ろされようとしたとき、一瞬にしてウィリズの首が宙に舞ったということ、それが、イザスの手で行われたということ、そこにいた数人の兵士を切り比せ、赤子を抱いて走りだしたということを。

 イザスは走った、その場からできるだけ離れるために。

「イザス!」

 イザスの進路に、一人の兵士が立ち塞がった。

 その兵士はロジといった。イザスが二年ほど戦場を共にした戦友である。

 イザスは躊躇いもなく、ロジに剣を振るった。

 その剣撃を楯で受け止め、ロジも剣を振るう。イザスに向けてではない、イザスが抱く赤子にその剣を振るったのである。

 咄嗟にイザスが赤子をかばおうとした、それこそロジが狙っていたことであった。

 赤子に剣を振るったのは囮であり、それによってイザスの気を赤子に向けさせるのが、ロジの狙いであったのだ。

 赤子をかばうイザスの顔面に、ロジの剣が振り下ろされる。

 避けきれない!

 ロジの剣はイザスの右顔面を縦に切り裂いた。右目の上辺りから頬にかけて、剣の軌道を示すかのように血が吹き出す。

 しかし、イザスはそれを気にかける素振りも見せず、自分の剣をロジに振り上げた。その攻撃を右脇腹に受け、ロジは地面に片膝をついた。

 ロジは直ぐに動けそうもなかったが、その傷は致命傷ではない。多くの剣戟でイザスの剣が荒れていたのと、顔面に傷を受け、思う様に力が入らなかったからだろう。

 ふたたびイザスは走り出す、身体から力が染み出していく、しかしその代わりに、腕の中の赤子から、新たな力が染み込んでくるような錯覚を、イザスは抱いていた。

 新大陸暦四百一年「ニード戦役」は、こうして終わった。

 

「ロジ、そこをどいてくれ」

 ターリスは、自分の行く手を阻む元戦友に言った。だがそれは、冷笑だけで却下されたようだった。

 それを確かめると、ターリスは手の中の愛剣を握り直し、そして構えた。

「やれ」

 ロジが指令を出すと、ミラン兵たちは一斉にターリスに襲いかかった。

 一瞬だった。

 ターリスの剣が、二人の兵士の首を跳ねたと同時に、ターリスの身体を五本の槍が貫いていた。

「クッ…」

 それでもターリスは、近くの兵士に剣を振るおうとした。だが、それは成功しなかった。剣を振るよりも先に、地面に倒れ伏したのだ。

 紅い血が短い草に染み込み、嫌なモザイク模様を創りだしている。

「…リ…ア…」

 ターリスは娘の、血は繋がっていないが、彼にとっては本当の娘だった者の名を最後の言葉にした。

 その言葉を聞いた者はいなかった、小さすぎて、ロジや近くにいた兵士には聞こえていなかったのだ。

 だが、この声はロジたちにも聞こえた。

「お父さん!」

 金色の髪の少女が、そう叫んだ声は…。

 

「お父さん!」

 リアは気づいたとき、その姿を目の前にしていた。

 幾人もの兵士に囲まれた、父親の姿を。血に塗れ、地面に倒れたまま動かない、父ターリス・ブリドの姿を。

「お父さん? そうか、あのときの赤子か」

 その声はリアには届かない、聞こえるわけがない、リアの耳には自分の絶叫しか聞こえていなかったのだから。

「殺せ、王族殺しの娘だ」

 そう告げたのが、ターリスがロジと呼んだ人物だとはリアには分からなかった。ロジがニード戦役で、国王の従兄弟を殺した兵士を探していたことも、その兵士が父ターリスであったことも、リアは知らなかった。

 ただ、自分に向けて振るわれた槍の光は認識できた気がした。そして槍を振るった兵士が一瞬にして、鎧ごと身体に大きな穴を開けて、リアの足元に倒れ伏したことも、リアの視界には入ってきていた。

 その意味を理解することは、出来ていなかったが。

 呆然と立ちすくむリアの姿は、伝説の中にしか存在を確認できない魔物、邪悪の代名詞である魔物のそれに変わっていた。

 大きな緑の瞳はその綺麗な色をなくして紅く光り、金色の髪は波打つように逆立っている。

「な、なんだ!」

 そう叫んだロジに、リアは視線を向けてこう思った。

『死ね』

 と…。

 刹那。ロジの身体は内側から弾け、血と内臓を辺りにぶちまけた。リアの白い肌に、その紅が色を落とした。

 ロジの…違う、ロジと呼ばれたいた物の欠片を身体中に浴びたリアに、ある「感情」が染み込んできた。

「気持ちいい」

 リアは思った。いや、思った気がした。

 その「感情」は、どこか外からリアの中に入ってきたように、リアには感じられた。自分の感情ではない、誰かの、他の誰かの「感情」。

 でも、そんなことはどうでもよかった。ここにいる者を、全て殺し尽くす。それだけだった。

『そうだ、殺せ。殺し尽くせ!』

 リアは頭に響いたその声に従って、全てを壊し、そして「殺したい」と思った。

 それが実行に移行されるまでに、さほどの時間は必要ではなかった。

『殺せ、殺せ、殺せ!』

魔力の強い者なら見えたであろうか、リアの傍らで、四枚の歪な翼を持つ狼が、紅い瞳を光らせていたのを。

『殺せ、殺せ、殺せ! 使役よ、それが主命だ』 

 それからのことは、リアの記憶にない。

 リアによって、動くことを止めさせられた兵士達に囲まれて、ターリスの亡骸を抱えて泣いたことだけは、少し覚えていた。

 

     3

 

「何だと、大神官リーンがか!」

 ミラン国王ミランシャール八世は、この非常事態に困惑していた。ミラン月神殿の大神官リーン・クリシュナーが、あの魔物の手に掛かって命をおとしたと報告があったのだ。

 あの魔物は、五年ほど前に突如としてミラン王国に現れ、国民を殺し続けている。あの魔物が現れる周期は決まってはいない、現に初めてあの魔物が姿を見せてから、次に現れるのに三年の空白があった。

 あの魔物。

 金髪の少女の姿をしたあの魔物は、無差別に人を虫けらのように殺害し、この五年間で、既にミラン王国の人口を二割は減らしていた。

 大神官リーンがあの魔物の討伐に赴いたのは、一月ほど前のことである。大神官リーンは、二十四歳の金色の髪をした美女で、現在では失われつつある力、魔力を持ち、大陸全体で十六人しかいないと言われている魔法士の一人であった。

 そう中でもリーンは、大魔法士と呼ばれるほどの力の持ち主であったのだ。だが、そのリーンもあの魔物には勝てなかった。火、風、土、水、時間を操る力、魔法と呼ばれるその力の内、一番の魔力が必要とされる時間の魔法を使うことができる、大陸でただ一人の魔法士であったにも関わらずだ。

「それほど、それほどの魔物なのか…」

 ミランシャール八世には、その報告は一概に信じられなかった。大神官リーンの力を、この国王は十分に認識していたからだ。

 だが、それは事実である。リーンはあの魔物の手に掛かって死んだ、恋人であった、ジーズ公国の青年カイル・ロイと共に…。

「待て!」

 その時、国王の部屋の扉前で騒がしい声が聞こえた。

 そして一瞬後。バンッ、と、勢いよく扉が開き、一人の二十歳ほどの黒髪の美女と、その美女を追うように、数人の親衛兵は姿を現した。

「あなたがミラン国王ね」

 黒髪の美女は、言葉の意味が分かっていないような尊台な態度でそう言った。

「そうだ」

 その態度に負けないように答えた四十代前半のはずの国王は、髪の色が白のせいか実年齢より老けてみえた。

「なら、話は分かってるわね」

「…あの魔物のことだな」

「そうよ」

「だが、お前は誰だ。話はそれからだ」

「あたしを知らないの…だったら教えてあげる。あたしはジーズ太陽神殿の巫女、ノエル・シェラリールよ」

 その言葉に、辺りの者は黙った。一瞬を五つほど繋げた時間の後、

「なに! お前…、いや、あなたが聖剣士ノエル・シェラリール…さま」

 さっきこの美女、ノエルをこの部屋に入れまいとしていた兵が唸った。

「当たり前よ、こんな美女が二人もいてたまるもんですか」

 誰もそんなことは言っていないが、ノエルと名乗った美女が言い放った。

 しかし、だとすると…。この美女が、世界に七振しかないと言われている、いや、それも噂でしかなく、本当に七振存在しているのかは不明であるのだが、その聖剣を持つ者だというのか。

 聖剣とは、神話の時代に聖母マリアと共に邪神と戦った、七人の勇者が携えていたと言われている剣のことである。この聖剣は、持つ者を選ぶと言われていて、時代の変わり目にその姿を現すことがある。その力は絶大で、聖剣に選ばれた者、即ち聖剣士は魔法士以上の存在だと言われていて、現在、ジーズ太陽神殿の巫女ノエル・シェラリールという美女が、聖剣『シエン』の聖剣士であるという噂は、このミラン王国にまでとどいていた。

「ここに『左の羽の瞳』という宝石があるわね」

 『左の羽の瞳』と言えば、ミラン王国の国宝である。

「ああ、それがなにか」

「あたしに渡して、あの魔物を倒すのに必要なの」

「証拠はあるのだろうな」

「証拠? なんのよ」

「お前が聖剣士だという証拠だ」

「見せてもいいけど、あなたに分かるの?」

 ノエルはそう言って、背中に背負っていた大きな剣を抜いた。その剣の刀身は、紫色の光を放っていた。

「どう? これが『シエン』よ」

「成る程、確かに分からん。よって、『左の羽の瞳』は渡すわけにいかんな」

「そう、だったらいいわ。ミラン王国がどうなろうと知ったことじゃないけど、サリーシュの故郷をなくさせるわけにはいかないの」

「サリーシュ? リプトン伯爵令嬢のことか」

「伯爵令嬢かどうかは知らないけど、書記文官サリーシュ・リプトンのことよ」

「そうか…、だったら尚更渡すわけにはいかん」

「別にいいわ、力づくで貰っていくから。死にたくなかったら、あたしの周りに近寄らないことね」

 ノエルはそう言って笑うと、『シエン』を一振した。

 ドゴンッ、と大きな音と共に部屋の天井が吹き飛び、大小の欠片が降り注ぐ。何も言えない国王と側近に向かってノエルは、

「あたしは、そんなに気が長い方じゃないの。死にたくなければさっさと渡しなさい、どうせ魔物に殺されるのも時間の問題なんだし」

 と、不敵に笑った。

 

 あれから、どれだけの人間を殺しただろうか? しかし、そんなことがリアに分かるはずもない。声に従って『主命』を果たすことだけが、リアの使命だった。

 だが、それも終わりが来た。

「ごめんね、今のあたしにはあなたを倒すしか方法はないの」

 その若い女性はノエルと名乗っただろうか、紫色の光を放つ剣を持って、リアの前に立ち塞がっている女性だ。

 黒髪。黒い瞳。

 リアがいままで見たこともない、異相の美女だった。黒い髪、黒い瞳の人間は、リアが存在する世界では、とても希少だ。

 そんな二十歳ほどの美女が、リアを滅ぼすことのできる剣を持って、今ここに居た。

「分かってるわ、あなたは強すぎる魔力をクランに利用されただけだって…」

 邪獣クラン。その剣を持った女性は、声のことをそう呼んだ。リアには分からない、声は声であって、邪獣クランではなかったからだ。

 しかし、そんなことはどうでもいい。

「絶対に、絶対にクランはあたしが倒すわ。約束する。だから…だから、今は死んで!」

 リアは、自分の望みが叶えられることに感謝していた。

 待ち望んだ「死」を、そのノエルと名乗った女性がリアに与えてくれたのだ。

 女性の振るった剣が、リアの腹部を貫いていた。リアはそれを確認すると、安堵の表情をみせた。

 ノエルは泣いていた。どれだけのことを、ノエルは知っていたのだろうか。リアの苦しみ、悲しみ、そして孤独、その全てを知っているようにリアには思えた。

「ありがとう」

 リアは、ノエルにそう言った。本当にそう思った、ありがとう…と。

 これで、もう人を殺さなくてもいい。

 ターリスが待つ、あの丘の家に帰ることができる、リアの目の前にあの懐かしい景色がひろがった。

「森の奥に行っては駄目だと言っただろう」

 ターリスが、優しく窘める声が聞こえた。

「ごめんなさい。お父さん」

 リアは涙声で答えた。

 緑の香りを孕み、風がながれる。

「ただいま。お父さん…」

 大好きな父の胸に飛び込むリア。身体を包み込む温もり。

 彼方からの風が「親子」を優しく祝福し、やがて彼方へと流れ去っていった。

 

     4

 

 金髪の魔物を倒した聖剣士ノエルは、これ以降その姿を人々に見せることはなかった。一説によると神界に渡り、四百年前に聖剣士ユイによって封印された邪獣クランと戦って、勝利を収めながらも、その命を落としたとも言われている。

 だがそれは、はっきりとしたものではない。そもそも神界などという場所が、本当に存在するとは思えない。ただ、金髪の魔物が滅んでから二年後に現れた、破滅の天使と呼ばれる魔物と、四人の勇者との戦いの中に、聖剣士ノエルの姿はなかった。

 ノエルの双子の妹、ランド聖王国の軍師アリア・シェラリールと、ノエルの仲間であったミラン王国の貴族、サリーシュ・リプトン伯爵令嬢の名を、その勇者の中に数えることができるだけだ。


End


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