第十一章 「楓三琴(かえで みこと)・初等部五年生の場合?(前編)」
「先生。わたし、もう帰らなくちゃ…」 行為の余韻が染み渡る身体。ベッドに横向きになる楓三琴(かえで みこと)は、シーツから頭だけを外に出し、自分を後ろから抱きしめる彼の腕の中で身をよじった。 「帰らせたくない」 彼が告げる。背中に感じる彼の体温を、三琴は「熱い」と感じた。 (わたしだって、本当は帰りたくありません。ずっとこのまま、先生と一緒に…) 彼と関係を持つようになって半年。 「はい、わかりました。帰りません」 そう返答することができるのなら、どんなに幸せなことだろう。だが「それ」は、まだ、許されていない。 「困らせないで…ください」 と、精一杯の言葉を返し、三琴は彼の腕をすり抜けてベッドに身体を起こす。腰元で切り揃えられた漆黒の髪が、黒いシルクのような滑らかさで彼女の動きに従った。 ベッドから降り、完全に露わになった三琴の身体は、細すぎると思えるほどに細い。 「硬さ」を残す、申し訳程度の二つの膨らみ。大男なら片手で掴めそうな腰。肉付きの薄い、真っ白な臀部。 それはあまりにも、「儚げ」な姿だった。 冷めてしまった行為の印が、彼女の太股を伝い足首にまで零れる。 三琴は馴れた動作でティシュを箱から数枚抜き取ると、その印を拭う。足下から太股。そして印が零れ出る肉のワレメ。 三琴は拭い終えたティシュを、部屋の隅に置かれた陶器のゴミ箱に捨て、そのまま、デスクチェアに畳み置かれた自分の衣類に手を伸ばし、着込む。 白のショーツ。ブラは使用していないので、裸の上半身にそのままカッターシャツを纏い、紺のスカートをはく。襟元にホックタイプの短いネクタイを付け、襟と袖に白のラインが走る落ち着いた茶色のサマーコートを羽織り、きちんとボタンを留める。 最後に靴下をはき、利き腕の左手で撫でつけるように髪を整えると、三琴はベッドに上半身を起こして彼女が着替えるのを眺めていた、彼の元へと歩み寄った。 「どこか、おかしいところはありませんか?」 彼は黙って三琴の頭部に手を伸ばすと、 「前髪…少し、ゆがんでいる」 眉の上で切り揃えられた三琴の前髪に、指を滑らせる彼。三琴は指摘された前髪を、やはり撫でつけるようにして整えた。 「これで、いいですか?」 「あぁ。かわいい」 無表情で告げる彼。三琴は、はにかむように微笑むと、彼の唇に自分のそれを重ねた。 時間にして五秒ほど、二人は唇で触れ合う。 触れ合うだけの、キス。 三琴の顔が、彼の顔から離れた。 「…明日はわたしのクラス、先生の授業がありません。逢えないかも…しれませんね」 「寂しいか?」 「はい…寂しいです」 「俺もだ」 不意に彼は三琴を抱き寄せ、その唇を激しく吸った。 「ぅっ! ぅく…」 口腔内に差し込まれる舌。三琴は歯を開いて受け入れ、自分の舌を絡めた。 結合部から溢れた唾液が、三琴の唇の端から顎を伝って零れる。 彼が激しいキスを求めるとき。それは彼が、三琴との別れを本心から悲しみ、足掻いているときだ。 三琴はそれを理解していた。 歳が離れている。「教師」と「生徒」。 そんなことは関係ない。今、彼と三琴は、愛し合う「男」と「女」でしかない。それ以外の「集合」に、二人を当てはめることはできない。 (愛してる。三琴) (愛しています。先生) 夕日が射し込む彼の部屋。一つとなる二人の影が、オレンジ色に反射する床に蠢いていた。
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三琴が彼、夏目光一(なつめ こういち)と出会ったのは、四年生になってすぐだった。 「夏目光一です。この一年、みなさんの社会科の授業を受けもちます」 感情が読みとれない無表情な顔。細身で背が高く、でも「ひょろ長い」という印象は受けない。低い声だが、聞き取り難いというわけではない。 大学を卒業したばかりだという新米教師は、それだけを無表情な顔で告げると、すぐさま授業を開始した。 光一に対する三琴の第一印象は、 「こわそうな先生」 というものだった。
光一の授業は坦々と進むが、要所は押さえられていてわかりやすい。黒板も文字も、定規を当てたかのように、少しのゆがみもない。 授業中に光一の私語はなく、授業に関係することしか話さない。授業中の質問は許可されず、しかし休み時間を利用しての質問なら、時間が許す限り教えてくれる。休み時間で足りなければ、放課後を利用してでも、生徒がわかるまで説明する。 三琴は社会科が少し苦手だったが、光一の授業を受けだしてから成績が上がった。 「夏目先生のテストは難しい」 クラスメイトたちはいったが、三琴はそう思わなかった。 代わり映えのない、坦々とした授業。静かな教室に響く、光一の低い声。 いつしか三琴は、光一の授業を待ちわびるようにすらなっていた。 (先生の低い声を聞くと、なんだか落ち着いて、いい気持ちになる) だがそう思っているのは三琴だけらしく、光一は、生徒から好かれている教師ではない。 理由として、「笑わないし怒らない」。「授業はわかりやすいが、テストが難しい」。そしてなにより、「なにを考えているのかわからない」。というものだ。 たしかに三琴も、光一の表情も思考も読めなかった。 どんなときでも変わらない表情。強弱のない声。 「ロボットみたい」 と、光一を表現した生徒がいた。 その言葉に三琴は、自分でも理由がわからない「怒り」を覚えた。 (違うっ! 先生はそんなのじゃないっ!) 口に出せないもどかしさ。出してしまうと、「変」に思われる。それに三琴自身、なぜ自分が「怒り」を覚えているのか理解できていない。 三琴にできたのは、その場から立ち去ることだけだった。
事件が起きたのは、秋も深まった十一月半ば。飼育館で飼育されていた八匹のウサギの内三匹が、何者かによって命を絶たれたのだ。 三琴も、何度か世話をしたことがあるウサギたちだった。 三琴がその事実を知ったのは、担任教師の説明によってだ。 「第二校舎の裏庭に埋葬したそうだ」 放課後三琴は、説明された通り第二校舎の裏庭にいった。 裏庭の隅。ポプラの木の根本に、三つの墓ができていた。 十字架に作られた板製の墓碑。 「ピコの墓」 「ピョン子の墓」 「しんじろうの墓」 黒のマジックで記され、盛り上がった塚それぞれに、かすみ草が捧げられていた。 (…このお墓。いったい誰が…?) と思った瞬間。三琴の疑問は氷解した。 見覚えのある筆跡。間違いない。 (これ、夏目先生の字だわ) 「もう下校時刻だぞ、楓」 後方から突然の声。振り返ると光一が立っていた。 「せ、先生…あ、あの」 「ん? なんだ。質問か? 時間がないから、十分には説明できないかもしれない。そのときは明日…」 光一の言葉を遮り、三琴は訊いた。 「このお墓。先生が作ったのですか…?」 「授業の質問じゃないのか。あぁ…それなら、そうだ」 「どうして…ですか?」 「どうして? かわいそうだからに決まっている。どこかに捨てるわけにもいかないだろ」 「…そう…ですね」 「そうだ」 当然のことだとでもいうように、光一の表情は変わらない。 「先生って、優しい人…ですね」 三琴の言葉に、光一が表情を崩した。驚いたような顔をしたのだ。そして光一が驚いたような顔をしたことに、三琴は驚いた。 「…やさしい? お、俺がか?」 「は、はい」 数瞬の後。 「そんなことをいわれたのは…初めてだ」 三琴は、光一が「照れて」いることがわかった。表情はいつもの無表情に戻っていたが、三琴には「それ」がはっきりとわかった。 と、見つめ合うように向き合う二人の「隙間」に、下校時刻を告げるチャイムが響いた。 「時間だ。校門まで送ろう」 三琴の返事も待たずに、歩き出す光一。その背中に「はい」と返し、三琴は光一の隣へと急ぐ。 「あの、先生?」 「なんだ」 「どうして、その…殺されちゃったウサギの名前がわかったのですか?」 「見ればわかる」 「見れば…ですか?」 三琴は何度かウサギの世話をしたこともあったが、ウサギの見分けができるほどではなかった。はっきりいってしまうと、全部同じに見えていた。 「右耳に小さなハゲがあったのがピコ。八匹の内、一番目が赤かったのがピョン子。しんじろうは、右目の周りに黒い毛があった」 たしかに三琴にも、しんじろうは区別はついていた。八匹の中で、唯一真っ白ではなかったからだ。 「…すごい、です。先生」 「毎日顔を合わせていたんだ。普通だと思うが」 「毎日ですか? お休みの日も?」 「そうだ。アパートが学園の近所だからな」 「…ウサギ、好きなんですね」 「動物は、なんだってかわいいものだ。楓は、動物は嫌いか?」 「い、いいえっ。す、好きです」 「だったら、俺と同じだな」 俺と同じ。 三琴の胸の奥に、ポワッとした温かさが宿った。 「だが、どうしてだったんだろうな」 「なにが…ですか? ウサギが、殺されちゃったこと…ですか?」 「それは、なんとなくだがわかる。犯人がわかるわけではないがな。それよりも不思議なのは、しんじろうは、どうして“しんじろう”という名前だったのかってことだ」 三琴には、光一の疑問の意味がわからなかった。名前なのだから、仕方がないのではないか。そう思った。それよりも、光一が自分の歩幅に合わせて歩いてくれているということに、三琴は「関心」をもっていた。 だが三琴は歩幅のことには触れず、 「そういう名前だったから…ではないですか?」 と、話題を返した。 「うん…まぁそうなんだが、だが、しんじろうはメスだぞ? 女の子に“しんじろう”というのは、不自然じゃないか」 「えっ? しんじろうって、女の子だったのですか?」 「…なんだ。知らなかったのか」 「は、はい…知りませんでした。男の子だとばかり思っていました」 「まぁ、ウサギのオスとメスの見分けは難しいからな」 ここで、二人は校門に到着した。 「じゃ、楓。気をつけて帰りなさい」 三琴は光一の傍らを離れるのが、惜しかった。もう少し一緒にいて、話しをしていたいと思った。 肌寒い秋風。紫色に染まり始めた空。光一が落とす長い影が、三琴の足下にまで伸びていた。 三琴はその影を踏まないように気をつけ、校門を出た。光一は動かずに、三琴を見送っている。 振り返り、光一に頭を下げる三琴。別れの挨拶をしなければならないのに、言葉が出てこない。 結局三琴は、無言でその場を後にした。光一も無言でその背中を見送った。 駅に到着するまでの道のり。さほど長いものではない。 (わたし、どうしてこんなに「悲しい」のかしら…?) その道すがら三琴は、油断すると零れそうになる涙を、必死で堪えなければならなかった。
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二月十四日。聖バレンタインデー。 前世紀に「お菓子屋さん」が考え出したイベントだが、未だ廃れることなく残っている。多少、「お菓子屋さん」の思惑とはズレてきてはいたが。 「来週のバレンタインデー。手作りのチョコレートクッキーを紅いリボンでラッピングして、好きな人に手渡しで渡して受け取ってもらえると、絶対うまくいくんだって」 クラスメイトのお喋り。聞くともなしに聞いた。 (クッキーって、どうやって作るのかしら?) 三琴は料理ならできるが、お菓子はほとんど作ったことがない。三琴自身が女の子にしては珍しく、甘い物を好まないからだ。とはいえ、辛い物が好きかといえばそういうことでもなく、三琴はなんでも薄味の物が好みだ。 この頃になると三琴は、自分の光一への感情が「恋」だということを理解していたし、認めてもいた。 「わたしは、夏目先生が好き」 しかし光一にそれを告げるほどの勇気は、三琴にはなかった。ただ心の中で「大切」にしているだけの「想い」だ。 だがこれはチャンスだ。言葉にはできなくとも、「想い」を行動にして伝えることができる。 三琴は図書館で「お菓子作りのステップ・T」という本を借り、クッキーの作り方を勉強した。 三琴が「これでいい…かな?」というレベルのクッキーを作り上げたのは、二月十三日の夜も深まった時間だった。 「これを紅いリボンでラッピングして、明日先生に渡そう」 三琴はハンケチにクッキーを包み、それに紅いリボンを結んだ。 「手紙とか、つけたほうがいいかしら…?」 だがそれは止めた。というより、なにを認めていいのかわからなかった。 全ての「準備」を終え、ベッドに入る三琴。 (先生…受け取ってくださるかしら? ご迷惑ではないかしら? やっぱり、渡すの止めようかしら…) もし、受け取ってもらえなければ。もし、「迷惑だ」といわれでもしたなら。 悪い想像が三琴を苦しめた。 (そ、そうだっ! 先生、あんなに優しくてステキな人なんだもの、おつき合いしておられる女性がいても、不思議ではないわ) 三琴はそのことに、初めて思い至った。 光一が結婚していないということは知っていたが、恋人がいるかどうかはわからない。 光一に恋人がいる。 その想像は、三琴を「黒くてドロドロとしたモノ」で包み込んだ。 (いやっ! そんなの絶対にいやっ!) 三琴の知らない誰か。もしかすれば、知っている誰か。 その誰かに光一が、三琴の見たこともないような「表情」を送っている…かもしれない。 「うぅ…い、いや…」 呟きは、涙とともに零れた。 自分がどれだけ光一を「好き」なのかを、思い知らされた。 初めての恋。初めての苦しみ。泣いてしまうほど、彼に恋している自分。恥ずかしいとは思わなかった。 「先生は、誰にも渡したくない」 それだけを、強く思った。
明けて二月十四日。聖バレンタインデー。 とはいえ女子校である桃の丘女学園内では、共学の学校のような「浮ついた」雰囲気はないが。 三琴は昨夜作った手作りクッキーを、通学鞄に忍ばせて登園した。 (…本当に、渡してもいいのかしら?) 迷いは断ち切れない。 午前中最後の授業。光一の授業だった。 授業中三琴は、真っ直ぐに光一に目を向けることができなかった。だが授業が終わり、光一が教室を後にしたとき、三琴はその後を追っていた。 廊下には光一と、幾人かの生徒の姿。 「せ、先生っ」 振り向く光一。 「なんだ楓。質問か」 「あっ…そ、その…」 口ごもる三琴。なにを言葉にしていいのかわからない。 「どうした? わからないことがあるなら、なんでも質問してくれ」 「あっ、あの先生っ。ほ、放課後…お話があります。いい…ですか?」 「今では不都合なのか?」 そういうことではないが三琴は、 「放課後が…いいです」 そう答えた。 「わかった。放課後は社会科指導室にいる。下校時間までなら、いつきてくれてもいい」 「は、はいっ。ありがとうございます」 歩き去る光一の背中を、三琴は見えなくなるまで見つめていた。
社会科指導室は、第一校舎の別館三階の隅にあった。光一はこの部屋で、生徒の質問に答えることが多い。 三琴も何度かここで、光一と「二人きりの時間」を過ごしたことがあったが、光一を「意識」し始めてから、ここにくるのは初めてだった。 (先生…もういらっしゃるのかしら?) 耳をドアに着け、三琴が内部を伺おうとしたとき。 「楓。なにをしている」 後ろから声がかかった。 ビクッと飛び上がる三琴。 「あ、あの、そのっ」 言葉にならない言い訳をする三琴を、光一がいつもの無表情で見下ろしていた。 「遅くなってすまなかった」 光一は三琴が耳を着けようとしていたドアを開け、室内に入る。三琴もそれに続いた。 室内の中心には四人がけの机と、四つの椅子。壁際の二つの本棚には、溢れるほど本や資料が詰め込まれていた。 「それで、なんの質問だ」 椅子に腰を下ろしながら光一が告げる。 三琴は光一の対面に立ったまま、 「し、質問ではありません。その…お話です」 「…取りあえず座れ」 光一の対面に腰を下ろし、三琴は抱えていた通学鞄を隣の椅子に置いた。 ここまできてしまったが、いったいどう切り出せばいいのだろう。三琴は切っ掛けを探したが、探しただけだった。 しばらくの沈黙。 焦り出す三琴。 (な、なにか話さないとっ) 「あ、あのっ。先生っ」 「なんだ」 「きょ、今日がなんの日か、知っていらっしゃいますか?」 「なんの日? 俺の誕生日だということ以外でか?」 「…お、お誕生日なのです…か?」 「そうだ」 知らなかった。 「そ、それは…おめでとう…ございます」 「あぁ」 再び沈黙の二人。どこからか、生徒たちの笑い声が聞こえていた。 と不意に、 「そうか。今日はバレンタインだ」 光一がいった。どうやら、今まで考えていたらしい。 「そ、そうですっ」 「…で? 楓の話とはなんだ」 三琴はハッとなったような顔をして、隣に置いた鞄からハンケチで包み、紅いリボンを結んだ手作りクッキーを取り出し、 「こ、これを受け取ってくださいっ」 光一の前に差し出した。 「なんだこれは?」 「その…クッキーです」 「誕生日プレゼント…というわけではないようだが。もしかすると、バレンタインのプレゼントという物なのか?」 「そ、そうです…」 「渡す相手が間違っていないか? それともこれを、誰かに渡して欲しいのか?」 「ち、違いますっ! せ、先生に…受け取ってもらいたいんです…」 「…いくら俺でも、バレンタインのプレゼントの意味は知っているぞ」 「……」 耳まで真っ赤にしてうつむく三琴。 「どうにもよく把握しきれないのだが、楓を見ていると、これが教師への感謝の印という物とは思えないのだが」 「…は、はい。違い…ます」 「素直な意味として理解していいのか?」 「たぶん…そうしてくださると、嬉しいです」 「では楓は、俺との交際を望んでいると理解していいのだな?」 それまでうつむいたままだった三琴が、驚いたようにバッと顔を上げた。 「こ、交際…ですかっ?」 「違うのか」 「違いませんっ!」 「なら合っているじゃないか」 「はい…」 三琴が驚いたのは、光一が「交際」などという古めかしい言葉で、いきなり三琴の「望み」を口にしたからだ。 「それでその交際は、結婚を前提として…と、考えていいのか?」 話がいきなり飛躍した。 「…えっ? け、結婚?」 「そうだ。俺は、結婚を考えている女性以外と、恋人関係になるつもりはない。だから楓は、俺との結婚を考えているのかと訊いている」 「そ、そんなこと急に…」 三琴は光一に自分の「想い」を知ってもらいたいとは考えていたが、結婚などということは想像もしていなかった。 「もしそうでないのなら、これは受け取れない。だが楓が、いずれは俺と結婚するつもりでいるのなら、喜んで受け取らせてもらう」 「う、受け取って…もらえるのですか?」 「結婚するつもりがあるのなら…な」 結婚…自分が光一を結婚する? 想像するだけで三琴は、あまりの嬉しさに泣いてしまいそうになった。 「わ、わたし…先生と結婚しますっ!」 はっきりといい切る三琴に、光一が告げる。 「この場限りでのことではないぞ。こういってしまうのはあまり好むところではないが、楓はまだ子供だ。本当に、結婚という行為の重みが理解できているのか? 俺には、なぜ楓が、俺なんかに好意を寄せてくれているのか理解できない。俺は自分の程度を知っているからな。 楓はこの先、俺よりも優れた異性にたくさん接する機会があるだろう。俺などが、取るに足らない男だと知るときが、きっとくる。 そのときになって、心が動くことはないのか? 考えてみてくれ。本当に、俺でいいのか?」 光一の言葉が、三琴に浸透していく。未来のことなど、三琴にわかるはずもない。彼女は予知能力者ではないのだから。 だから三琴は、自分の思っていることを口にするしかなかった。 「…わ、わたし、これからのことなんてわかりません。で、でもっ、今わたしが好きなのは先生なんです。 わたし、先生と結婚したいです。先生のお嫁さんになりたいですっ!」 心からの言葉。三琴は告げた。 「俺は、ただの教師だぞ?」 三琴の頭の上に『?』が浮かぶ。 「…し、知っています…けど?」 「楓は俺から見れば生徒であるとともに、お金持ちのお嬢さまでもある。わかるか?」 わかるか? といわれても、なんのことだか三琴には理解できなかった。 「どういう意味…ですか?」 「ご両親が、俺たちの結婚に賛成するとは思えない」 「なぜ…ですか?」 「俺と結婚すれば、楓が苦労するのが目に見えているからだ」 「すみません。よく…理解できません」 「はっきりいえば、俺が貧乏人だからだ」 「そうなの…ですか?」 「そうだ」 「…で、でも。そんなことは関係ないと思います。わたしは、先生と一緒にいたいです。先生と結婚して、ずっと一緒にいたいです。 それが叶うのならわたし、どんな苦労だって平気です。先生と二人でなら、どんな苦労だって耐えられます。 わたしが一番耐えられないのは、先生と逢えなくなること…ですから。 だから誰がなにをいっても、お父さまやお母さまが反対しても、わたしは先生と…先生と、結婚…します。 さ、先のことはわたしにはわかりません。でも、先生よりステキな人なんて、いないと思います。 先生は、世界一ステキな人です。 ステキで優しくて、わたしを…この世界で、わたしを一番幸せにしてくださる、ただ一人の人だと、思って…います。 だからわたしは…わたしは…」 三琴の声が震える。なんとも表現がし辛い感情が、彼女の「全て」を駆けめぐっていた。 「わたしは、先生が好き…です。誰がなにをいっても、それは変わりません。 信じてください。としか、いえません…。 …だから、信じて…ください。 わたしは、先生が好きです。先生と、結婚したい…です。 わたしは本当に…せ、先生が…」 三琴の頬を涙が伝う。それでも三琴は光一を真っ直ぐに見つめていたし、光一も三琴の視線から逃れようとはしなかった。 「…わかった。信じる」 光一が三琴に触れようとするように、その右腕を伸ばす。が、二人は机によって隔てられていて、光一の手は届かない。 三琴は腰を浮かし、身体を光一に近づける。光一も同じように腰を浮かす。 縮まる二人の距離。光一の手の平が、涙で濡れた三琴の頬を撫でる。三琴は瞳を閉じ、その「温かさ」をじっとして受け入れた。 |