第五章 「柴崎可憐(しばざき かれん)・初等部一年生の場合?」
「あっ、パパ。おかえりなさいっ」 「ただいま。可憐」 帰宅した父を、柴崎可憐は満面の笑みで迎え入れた。 どんっと、ぶつかるようにしがみついてきた娘を、父、深緑(みのり)は、軽々と抱え上げる。 「今日も、いい子にしてたかい?」 「うんっ」 元気よく答えた可憐のぷくっとしたやわらかな唇に、深緑は自分のそれを重ねた。 「ぅん」 可憐は重ねられた唇から差し入れられた舌を、当然のように受け入れ、父と唾液の交換をする。 「んっ…ふうぅん」 くちゅくちゅと湿った音が響く。可憐は繋がった部分から身体中に染み渡る心地よさにうっとりとなり、頭の中が白く染まっていくように感じた。 (あぁ…パパ。ぱぱぁ) キスに馴れているように、くんくんと鼻で息をする可憐。 ちゅぱっ 唇が離れても、二人を唾液の糸が繋いでいる。しかしその糸は、すぐにぷちっと弾けた。 可憐はとろんとした目で深緑を見つめ、「ぱぱぁ…だいすきぃ」と夢見心地で父に告げる。 「パパも、可憐が大好きだよ」 その言葉に可憐はきゅんとなり、幸せすぎるあまり泣きたくなった。 「ぱぱぁ…可憐、もうがまんできないよぉ。して? いいでしょぉ、おちんちんしてぇ」 首筋にしがみついて懇願する娘を、深緑は寝室へ運んだ。
ベッドに乗せられるなり、可憐はドキドキしながら衣服を脱だ。しかし深緑が靴下ははいたままの方がスキなのを知っているので、靴下はそのままにしておいた。 「パパ。はやくぅ」 ダブルベッドに仰向けになり、可憐は膝をたてて股を開く。 少しお尻を持ち上げ、閉じた割れ目を「どうぞ」というように深緑に差し出すと、可憐の心臓は期待に膨らみ心音を増した。 可憐の期待に応えるべく、深緑は露出された娘の小さすぎる性器顔を埋め、キスを与える。 「アンッ」 快感というよりは、くすぐったさに可憐は鳴いた。 線に沿って前後する、深緑の舌の感触。 可憐は文字にすると「うきゅ、うきゅ」と明記するしかない、奇妙な喘ぎを漏らす。 ぴくぴくと幼い身体を振るわせ、ぎゅっとシーツを掴む可憐。上気した頬が桜色に染まり、耳も色を鮮やかにする。 きゅっと腹部が締まり、内臓が波打つ感覚が可憐を襲う。しかしそれは心地よく、幸せな感覚だ。 「ぱぱ、ぱぱ、ぱぱあぁ」 愛されていると感じる。圧倒的な「愛」が可憐を満たす。 そしてそれは、娘が父に対して抱く愛とは異なった「愛」だった。 そして事実。二人は、「本当」の親子ではない。 二人に血の繋がりはない。 だがこの事実は深緑だけが知るもので、可憐に知らされてはいない。 可憐は、深緑が自分の「本当」の父親だと信じ、疑っていない。 「可憐のママは、もういないんだ」 「父」という他人の嘘。 「それでもいい。可憐は、パパがいればいい」 「娘」という子供の真実。 歪んだ親子ごっこ。 毎日繰り返される交わり。 快楽。 多分…許されることのない。 だが二人は望んでいる。 愛し合う瞬間を。 愛し、愛されていると「確認」できる、「瞬間の連続」を。 重なり、蠢き、心地よく、真っ白になって。 咎。 それは誰の? 父の? 娘の? 深緑の? 可憐の? でも… どうして「これ」は許されないのだろう? 許されていないのだろう? 七歳になったばかりの幼女が、小さく、薄く、やわらかく、幼すぎる身体を差し出す。 愛されたいから。 愛されていると感じ、心地よく、気持ちよくなりたいから。 そして「父」という仮面を被った二十八歳の成年(青年?)が、その「娘」の、幼女の望みを受け入れる。 ただそれだけの…。 だから、 どうして? それは多分… 「歪んで」いるから。 深緑が「こう」することで、可憐に「愛」を感じることができると教えてしまったから。 それが「歪み」。 誰の? 深緑の。 そして、「この愛」を受け入れてしまった可憐の。 だけど、 どうして、 「歪んで」いてはいけないの? 二人は、こんなにも「幸せ」そうなのに…。
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柴崎可憐は、桃の丘女学園初等部の一年三組に在籍している。 成績は十九人のクラスで上から数え、三番目から五番目といったところだろう。 可憐が通う桃の丘女学園は、幼等部、初等部、中等部、高等部の四学部からなり、学業はもちろん、スポーツ、生活面に至るまで、英才教育といってしまっていい方針をとっている。 当然、入園するためには厳しい試験があり、毎年の合格率は二割に満たない。 学費がそれなりに高額なことから、学園には良家の子女が多い。可憐もその一人だ。 桃の丘市では知られていることだが、「柴崎」は市の名家である。 二年前の2009年。「月曜日の殺人鬼」を捕まえ一躍全国に名を知られることとなった「名探偵・柴崎琴香(しばざき ことか)」も、この「柴崎」の人間である。そして可憐の父深緑と琴香は、従姉弟という関係でもある。 現在、柴崎家を束ねているのは琴香の母、弓子(ゆみこ)だ。深緑は弓子が総帥を務める「柴崎グループ」の一社、主に情報を「商品」としている「AURA(アウラ)」で、取締役として働いている。 取締役といえば役職だ。この数年伸びの著しい「柴崎グループ」の中でも、「AURA(アウラ)」は中核をなす会社であり、当然深緑には高額の収入がある。 そんな深緑の娘可憐は、令嬢といっもいい「位置」にその身を置いている。 可憐は学園内で、令嬢の名に恥じない容姿、知性、生活態度を示し、教師の受けもいい。 あの、深緑の前で痴態を演じた可憐と、学園での可憐は、とてもではないが同一人物とは思えないくらいだ。 では、どちらの可憐が「本当」の可憐なのだろうか? それは多分、どちらの可憐も「本当」の可憐なのだろう。 血の繋がらない(可憐は知らないが)父と交わり、身体を重ね、「おちんちんしてぇ」などという言葉を口にする可憐も、普通の小学校なら三年生のレベルの授業を一年生で習うような学園で、それにつまずきもしないでいる可憐も。どちらも「本当」の可憐であり、どちらが欠けても「本当」の可憐ではないのだろう。 複雑なようで、実は「単純」な小学一年生、柴崎可憐。 父を愛し、自分を愛し、「今」を愛している少女。 幸福の光に包まれ、心穏やかな頬笑みを振りまく彼女に、「歪み」は感じられない。 感じられないことが、「歪んで」いるとは考えられないだろうか。 それとも…。
毎晩毎夜。それに休日には朝でも昼でも父と繋がっていることもある可憐は、実はまだ「処女」である。 二人が繋がるのは口と口であり、男性器と口であり、男性器と排泄器官であり、「心」と「心」である。 男性器と女性器の繋がりを、可憐は経験していない。 なぜなら、それが可能となるほど、可憐の女性器が発育していないからである。 しかし幼女でも、排泄器官はそれなりに発育しているものだ。可憐が深緑に「後ろの処女」を捧げたのは五歳の時だ。 初めての時はとても痛かったし、流血もした。 なぜ深緑が「こんな痛いこと」をするのか理解できなかったが、「大好きなパパ」がすることだからイヤではなかった。 そして何度も「痛いこと」を受け入れているうちに、「痛いこと」は「気持ちいいこと」へと変化していった。 うんちを出し入れされているような感覚は、胸の奥がきゅんとして締め付けられるように感じるようになり、繋がった父の温かさは、世界一心地よいものだと感じるようになった。 だから可憐は、深緑に「抱かれる」のが大好きだ。 心地よく、父を受け入れると肉体的にも、精神的にも満たされる。 「お尻の中をパパのおちんちんで埋めてもらう」と、可憐は自分に足らない部分が、自分に空いた「穴」がなくなり、自分を誇らしく感じることができる。 「パパは可憐をひつようとしている。可憐はパパがそばにいてくれないと生きていけない。パパがいてくれないと、さみしくて死んでしまう」 可憐にとって、二人は一対の存在だ。 どちらが欠けても、「存在」することが不可能となってしまう。 だからいつも一緒にいなければならない。 いつも繋がっていなければならない。 そして幸せで、頬笑み合って、楽しくて、心地よくて、泣きたくなるほど「愛」し、「愛」されて…。 そんな日常を、そんなごく普通の毎日を繰り返しながら、二人は「生きて」いかなければならない。 それが二人の「本当のカタチ」だから。
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「パパ。おちんちん、きれいにしてあげるね」 アナルセックスを終え、肛門から零れる排泄物色に濁った精液を、深緑にテッシュで拭ってもらった可憐は、そういってまだピクピクと震えている深緑のペニスを口に含んだ。 自分の排泄物がこびり付いていたが、それはいつものことなので気にはならない。 「お尻におちんちんを入れてもらったんだから、うんちがついているのはあたりまえ。可憐のせいで、パパのおちんちんにうんちがついているんだから、可憐がきれいにするのもあたりまえ」 そう思っていた。 力を失い、やわらかくなった男根に舌を絡ませる。排泄物と精液の味がした。可憐にとっては、味わいなれたものだった。 「ちゅぅちゅっ。ぴちゃ、ちゅっ」 優しくキスをするように、母が我が子の傷口を舐めるように、可憐は深緑のモノをきれいに洗う。 深緑はそんな可憐に、愛おしげな視線を送っている。 そんな二人の姿には、どこにも忌避すべき場所はない。なにも「歪んで」はいない。 愛し合う、一対の「男女」としては…。 しかし「親子」として二人をみてしまうと、これは「歪んだ」姿なのだろう。 父のペニスに口をつけ、舌を這わせる娘。 その娘は、未だ七歳の幼女。 血の繋がらない「父と娘」。 それは、「ただの男女」となんの変わりがあるのだろうか。 ただ、「女」が「男」をパパと呼んでいるだけではないか。 一緒に暮らし、「家族ごっこ」を演じている、ただの「男と女」。 「女」はまだ幼く、でもやがて成長し、美しく成長し、そして…。 …そして、 「歪んでいる」二人の関係を思い知るのか? そしてなにを思い、なにを感じ、なにを捨て、なにを残し、なにを…。 受け入れるのか? 「現実」を。 絶望するのか? 「現実」に。 ぴちゃぴちゃと音を立て、「父」の性器にしゃぶりついているこの「娘」は、やがて「現実」に直面する。 それは「当然」のことだ。 「パパなんて大嫌いッ! なんで可憐に…可憐にあんないやらしいことしたのッ?」 成長した「娘」が慟哭する。 それは「悲しい」こと? 「わかってる…全部わかってるよ、パパ。いいの、可憐はパパのこと大好きだから、パパのこと…「愛してる」から。だから可憐は嬉しいよ、パパ」 成長した「娘」が、「女」として告げる。 それは「幸せ」なこと? 誰がそれを決める? 無粋な疑問。 そう、これは無粋な心配だ。 幸せそうな「今」の二人。 この「今」が、二人の「真実」。 「今」は「未来」ではなく、「未来」へと向かう「瞬間の連続」が「今」だ。 不確定な「未来」より、幸福な「今」を尊重してなにが悪いのか。 悪いと云える者が「存在」するのか。 いるとするならば、その者は、そう云える権利を、なにをもって手に入れたのか。どういった「義務」を果たし、その「権利」を手にしたのか? 幸福な「今」の二人。 「父と娘」。 「男と女」。 そんな「者たち」ではなく、この二人は「一対」の、「幸福へと至ろうとする者たち」。 その終局にどのような「現実」がまっていようとも、「今」の二人に「未来」への怖れはない。 「未来」へと至る「今」を、幸福に、そして心地よく、二人は歩んでいる。 頬笑み合う二人の笑顔が、そう物語っていた。
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「優しいパパ」 「パパのおちんちんはとても優しい」 「パパのおちんちんは可憐のもの」 「パパのおちんちんジュースは、にゅるにゅるしてて、あたたかくて、すっごくおいしい」 「あたたかなパパ」 「大好きなパパ」 「パパのぜんぶは、可憐のもの」 「可憐のぜんぶは、パパのもの」 「パパは可憐の、可憐はパパの」 「だから、パパと可憐はずっといっしょ」 「これまでも、これからも」 「ずっと」 「ずっとずっと」 「死ぬまで」 「死んでも」 「ずっといっしょ」 「ねっ? パパ」 「そうだよね?」 「ずっといっしょだよね?」 「パパ大好き」 「ずっと可憐のパパでいて?」 「ずっと可憐をはなさないで?」 「パパ…」 「…ぱぱ」 「パパがそばにいてくれれば、可憐はずっと幸せでいられるの」 「だからパパ」 「ぱぱ…」 「大好きッ!」 |