第七章 「新宮風子(しんぐう ふうこ)・初等部三年生の場合?」

 

 新宮風子は、学業の厳しい桃の丘女学園の初等部三年一組で、クラス委員長を務めているほどの秀才だ。

 縁のない眼鏡をかけているが、それによって容姿が損なわれているわけではなく、将来美人になるのは間違いないだろうと思わせる、かわいいというよりはきれいな少女である。

 少しつり目がちなところが、意志が強そうな印象を彼女に与えていて、それに実際、彼女は意志のはっきりした女の子だ。

 惜しむべくは、古くさいおかっぱのヘアスタイルが、まったく似合っていない。本人はそれなりに気に入っているのだが…。

 風子は算数教師が黒板に羅列する数字を、ラインが入っただけの、小学生の少女が使うにしては味気のないノートに書き写していく。

 ふと斜め前の席を見ると、クラスメイトの小笠原みゆりも、風子と類似した動作でノートをとっていた。

 風子は、みゆりを見ると胸の奥がチクッと痛む。

 クラスで、風子と一、二を争う優等生のみゆり。風子はみゆりが「嫌い」だった。

「いい子ぶってるかんじがしてイヤ」

 というのがその理由だが、それは風子がみゆりを嫌う「理由」として自分自身に与えたいいわけで、「本当」の理由ではない。

 だがそのことに、風子自身は気がついていない。

 「嫌い」なのに、気が付くとみゆりに目がいっている。体育のときなど、みゆりの風に舞う長い髪に見取れていたり、ブルマから伸びる細くしなやかな長い脚をみて、なぜか顔を赤らめたりしてしまう。

 普段は自分の意志をはっきりともち、イヤなことはイヤといえるのだが、みゆりが絡んでくると、風子は自分が自分でなくなったように優柔不断になる。自分でも、そうなってしまう理由が明確に把握できない。

 だからこう理由づけて、納得したふりをしている。

「わたしは、小笠原さんが嫌い。いい子ぶってるかんじがしてイヤ」

 と。

 自分ではわからない。自分の「本当」の気持ちが。

 自分が小笠原みゆりに惹かれているという「本当」を、風子は認識できないでいた。

 なぜならそれは、風子にとっての「初恋」だから。

 知らない感情だから理解できない。

 風子はみゆりに、クラスメイトとしてではなく、もっとそれ以上の想いで惹かれている。

 それは「恋」。

 初めての「恋」。

 風子には、それが「見えて」いない。

 そう、「今」は…まだ。

 

     ☆

 

 風子は秀才といってもいいが、それは人一倍努力している結果としてである。

 週二日は、学校から帰宅すると塾に直行し、午後九時まで塾で勉強しているし、塾のない日は、自宅で最低四時間は勉強している。

 それくらいしなければ、みゆりと優等生の席を争うことなど、風子にはできない。

「小笠原さんには負けたくない」

 その思いが風子の原動力となっている。

 風子がみゆりと同じクラスとなったのは、三年生が初めてだ。それまでにもみゆりのことは幼等部のころから知っていたが、同じクラスとなるまで、さほど気になる存在ではなかった。

 小笠原さんは頭がよく、生活態度もよく、運動もできて、友達も多く、教師の受けもいい…らしい。でも、わたしには関係ない。

 わたしは、わたしのペースでいけばいい。他人なんてどうだっていい。

 同じクラスとなるまで、風子はみゆりに対してそんな思いをもっていた。

 しかし同じクラスとなった日。

 みゆりは馴れ馴れしく(と、風子は感じた)、

「新宮さん、幼等部からずっといっしょだけど、同じクラスになれたの初めてだね。あのね、おねがいがあるの。風子ちゃんって、呼んでいいかな?」

 と声をかけてきた。

 その瞬間風子は、「この子にはぜったい負けたくない」と思った。

 なぜそう思ったのかはわからない。

 だからクラス委員長を決めるとき、自分から立候補した。みゆりの下にいるのはイヤだったから。みゆりに負けたくなかったから。

 成績のよいみゆりに負けないように、これまで以上に勉強に打ち込むようになった。

 負けたくない。まけたくない。マケタクナイ…。

 なのに風子は、あの時、みゆりのお願いを受諾した。なぜそうしたのか、今でもわからない。

「いいよ…わたしも、みゆりちゃんって呼ぶから…」

 しかし風子が、みゆりを「みゆりちゃん」と呼んだのは、この時だけだった。

 その瞬間の、みゆりの本当に嬉しそうな頬笑みが、脳裏に灼きついてはがれない。

 思い出すと胸が締め付けられ、苦しくなる。

(どうしてそうなるの?)

「それは、わたしが小笠原さんを「嫌い」だから」

(本当にそうなの?)

「そうよ。当たり前じゃない」

 自問自答を繰り返す。

(だったら「これ」はなに?)

「なにが?」

(この「秘密ノート」を埋めつくす、「みゆりちゃん」って文字は? このページも、このページも、このページもッ。ぜんぶ、ぜんぶ「みゆりちゃん」で埋めつくされてるじゃないッ。なんなの「これ」はッ?)

 沈黙。

 自答できない。

 返すべき言葉がない。

 答えがわからないから。

 沈黙。

 無言。

 静寂。

 そして…

「そんなノート、わたし知らないわ…」

 勉強机の上の「秘密ノート」を、風子はパタンと閉じた。

 

     ☆

 

 日曜の昼下がり。

 風子は勉強の手を止めて、気分転換に飼い猫の「ミル」と遊んでいた。

 ねこじゃらしを左右に振ると、ちょこんと座ったミルの金色の瞳と右腕(というか、右前足)が、それに合わせて左右に動く。

 単純で、とてもかわいい動作。

「ほら、ミル」

 風子が、左右の動きから唐突にねこじゃらしを上に持ち上げると、一動作遅れてミルがパッと上を見上げ、ぱたぱたと尻尾を床に打ちつける。

「あんた、飛びつくとかしないの?」

 ミルは尻尾を打ちつけながら、じっと上を見続けている。

 風子がねこじゃらしを左右の動作に戻すと、ミルも瞳と右腕をそれに合わせて動かす動作に戻った。

 結局「二人」は、飽きもせずにそんなことを三十分ほど繰り返した。

 

「ねぇちゃんっ。ゲームしようぜ、ゲーム」

 ミルと遊ぶのを止め勉強机に向かうとほぼ同時に、一つ下の弟、海人(かいと)がいいよってきた。

「ねぇちゃん勉強中」

「ぅんなの後でいいじゃん」

「ゲームをしなくても死なないけど、勉強はしなくきゃ、ねぇちゃん死んじゃうの」

「へっ、おれにゲームで負けんのイヤなんだろ? いくじなしっ」

 ピクッ

 風子の「負けず嫌い」が呼び起こされた。

 一時間後…。

 海人の好きな格闘ゲームで、風子は海人を完膚なきまで叩きのめしていた。

「ねぇちゃんのブーブッたれッ!」

「ブーブッたれはあんたよ。へたっぴ」

 ブーブッたれというのはこの姉弟の間で使われる、いわゆる「屁たれ」と同じ意味をもっている(らしい)造語である。

「クッ…お前のかぁちゃんでッべッそッ!」

「わたしのかぁちゃんは、あんたのかぁちゃんよ?」

「じゃっ、ねぇちゃんでべそ」

 ポクッ

 乾いた音で、風子の拳固が海人の頭頂部に振り下ろされた。しかしそれは、力の抜けた軽いものだった。

「ねぇちゃんは、でべそじゃないッ」

「おれもでべそじゃないぞ。じゃ、だれがでべそなんだ?」

「はぁ…知らないわよ、そんなこと」

「みゆりちゃんか?」

 海人の一言に、風子の血の気がサッと引いた。

「な、なんで…なんであんたが「みゆりちゃん」を知ってるのよッ!」

 いつもは優しい姉の、みたこともないような形相に、海人はビビッた。

「だ、だって、ねぇちゃんの机ん中のノー…」

「み、見たのッ! あれを見たのッ!」

 海人が「ノートに書いてあった」といい終わる前に、風子の平手が海人を張り飛ばしていた。

 バチンッ!

 という、激しい音と共に。

「な、なにすんだよねぇちゃん…」

 平手を受け床に転がった海人が、涙混じりの顔で起きあがる。

 バチンッ!

 その海人の頬に、風子は再び平手を浴びせた。

「…み、みたのね…あれをッ、あれをみたのねッ!」

 そして風子は、三度腕を振り上げた。

 

 その後のことは、風子はほとんど憶えていない。

 大声で泣く海人。

「なにしてるのッ。お姉ちゃんッ」

 振り上げた腕を母が掴んだ。

 ミルが、バタンッと音を立ててなにかにぶつかった。

 テレビの画面に、格闘ゲームのデモシーンが映っていた。

 そんなとりとめのない断片を、少しだけ憶えているだけ。

 自分を取り戻した時、風子は自室のベッドでうつ伏せになり、枕に顔を埋めていた。

 なんだか室内が荒れ、「みゆりちゃん」と書き連ねられたノートの断片が、床中に散らばっていた。

 そして風子はこの日、それ以降自室から一歩も出なかった。

 夕ご飯も食べず、お風呂にも入らず、勉強もしなかった。

 なにかがとてもやるせなくて、辛くて、苦しくて、ほとんど眠れなかった。

 明け方。

 浅い眠りの中で夢をみたような気がした。

 その夢には、みゆりが登場したような気がした。

 カーテン越しに差し込む朝日の中。

 風子は散らかった部屋を片づけた。

 学校に行きたくないと思った。

 みゆりの顔をみたくないと思った。

 そして、海人に謝ろうと決めた。

 

     ☆

 

 朝食の場で海人に謝罪し、「ごめんなさい」と二人でいい合って弟と和解した風子は、朝のショートホームルームで、みゆりが休みだということを知らされて安心した。

 今日は、小笠原さんの顔をみなくてもいい。

 ほっとした。

 だが、それと同時に、いい知れない虚無感も覚えた。

 どうして休みなのだろう? 風邪? ケガ? それとも、もっとなにか…。

 胸がザワザワした。

 授業に集中できない。

 斜め前の空席。いつもなら、みゆりの後ろ姿がある場所。

 そこだけ色がない。

 「みゆりがいない」という、「穴」が開いている。

 みゆりのことばかり考えていることを、風子は認識していない。

 みゆりの顔をみずに済んで安心した。

 それは事実。

 みゆりの不在に心が落ち着かない。

 それも事実。

 矛盾している。

 なにかが噛み合っていない。

 この日風子は、意味不明の苛立ちから解放されることがなかった。

 

 そして次の日も、また次の日も、みゆりは学校を休んだ。

 教師からは、「身体の調子がよくない」とだけ説明があった。

「大丈夫かな? みゆりちゃん」

「そうね、心配ね」

 こんなクラスメイトの会話に、風子は感心なさげな顔で耳を傾けていた。

(小笠原さんがどうなろうと、私の知ったことじゃないわ)

 強がり。

 本当は心配でたまらない。

 だが、そんなことを認めるわけにはいかない。風子はみゆりが「嫌い」なのだから。

 みゆりの家に電話をかけ、様子を訊くのは簡単だ。電話番号は記憶している。

 みゆりの家に行って、様子をみてくるのは簡単だ。住所は記憶している。

 でもそれは、みゆりが「特別」だからではない。クラスメイトだから当たり前。風子はクラスメイトの電話番号、住所を、全て記憶している。

 なんのために?

 そう訊ねれば、風子は「だから、そんなこと当然だからよ」と答えるだろう。

 しかし、「これ」を答えないことは明白だ。

 風子が最初に憶えたのは、出席番号一番の伊奈川京子(いながわ きょうこ)のデータではなく、出席番号二番の小笠原みゆりのデータだったこと。

 まずみゆりのデータを記憶し、それから出席番号順に憶えていったことを、風子は誰にも答えないだろう。

 なぜそんな変則的な順番で記憶したのか、自分でもわかっていないし、みゆりのデータを憶える「いい訳」としてクラス全員のデータを憶えたなどという「事実」は、「あってはならない」ことだからだ。

 みゆりの不在によって、風子のペースは狂い続けている。

 授業中。気がついたらノートをとっていない。

 なにをしていたか?

 ボケッと、主のない斜め前の席を眺めていた。

 家で勉強する時間が減った。

 なにをしているか?

 なにもしていない。気がついたら時間が経過している。

 その他にも、食欲がない。夜中に何度も目が醒める。意味もなく電話の前を行ったり来たりする…などの症状(?)がみられる。

 なぜそんな症状が現れるのか、風子にはわからない。

 イライラする。ザワザワする。落ち着かない。

 なぜ?

 わからない。

 わからない。わからない。

 わからない。わからない。わからない。

 ワカラナイ。

 なぜ?

 どうして?

「どうして私は、こんなにも小笠原さんのことが気になっているの…?」

 そう風子が「気づいた」のは、みゆりが学校に来なくなって、ちょうど一週間が経過した日のことだった。



戻る   

動画 アダルト動画 ライブチャット