『感謝』

 

 お金で全てが贖えるわけではないとかいうのは、裏返せばお金さえあれば大抵ものは手に入れることができ、そうでないのはごく僅かだということだ。

 そう、金さえあれば大抵なことは可能なんだ。

 金はこの世界で一番分かりやすく、そして通用する〈力〉だ。

 僕にはその〈力〉がある。だから、僕には大抵のことができる。

 毎日まいにち遊んで暮らし、贅沢をし、セックスをして、それでも僕の〈力〉は尽きることはない。

 別に、全てを手に入れる必要はない。手に入れることができるモノだけで、十分に満足できる。

 家も、食べ物も、着る物も、快楽も、僕は手に入れることができる。それで十分じゃないか。

「あなたは、真実の〈愛〉を知らない。かわいそうな人だ」

 そういったのは誰だっただろう? その人に、僕はなんと答えただろう? もう忘れてしまった。

 かわいそうとは、どういう意味だろう? 僕は幸せだ。

 真実の〈アイ〉とはなんだろう? 多分、取るに足らないモノだ。そんなモノはいらない。

 すきなときに、すきなことをして暮らす。

 不満はない。悩みもない。苦しみもない。

 それでいいじゃないか。

 僕には、それだけの〈力〉があるのだから。

 

 あたしがここで働くようになって、約三ヶ月が経過した。

 でもここでは、外界での時間はあまり関係ない。ここは、外界とは切り離された空間だから。

 あたしは、ここがどこにあるのか知らない。日本かもしれないし、違うのかもしれない。そもそも、そんなことはどうだっていいのかもしれない。

 あたしはここから出ることはできないし、出てもいくつもりもない。

 あたしはここに売られて来た。

 あたしはもう、自分だけの所有物ではない。

 あの日、黒い服を着た人が、あたしの両親に見たこともない量のお金を渡した瞬間から、あたしは旦那さまの所有物になった。

 あのお金さえあれば、お父さんもお母さんも、それにお姉ちゃんも、幸せに暮らすことができる。だからあたしは、がんばってここで働かなければならない。だって、なにもしないのにお金がもらえるはずないもの。

 あたしががんばらないと、あのお金返せっていわれるかもしれない。そうしたらまた、お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、そしてあたしも、恐い人たちに脅えながら暮らさなければならなくなる。そんなのはイヤ。

 お父さんの、「ごめんな。ごめんな」という言葉は、もう聞きたくない。

 お母さんが声をころして泣く姿は、もう見たくない。

 お姉ちゃんが恐い人たちに連れていかれて、朝になるとフラフラになって帰ってくるのには、もう耐えられない。

 だから、あたしを買ってくれた旦那さまには、本当に感謝している。

 あたしだって、来年には中学生になるはずだったから、人間を売り買いしてはいけないことは知っている。

 でもあたしも、守られていただけのあたしでも、家族のためになにかできたことは素直に嬉しい。

 あたしに価値を与えてくださった旦那さまには、返しきれないほどの恩をうけたと思う。旦那さまがいらっしゃらなければ、あたしたち家族はどうなっていたかわからない。

 旦那さまになら、あたしはなにをされてもいい。旦那さまには、その権利がある。

 でもあたしは、洗濯したり、料理を運んだり、雑用を申しつかったりするだけで、それ以外のことはなにもしていない。

 あたしと同じように旦那さまに買われてここにいる人には、“そういうこと”を仕事に働いてる人もいるらしい。

 あたしは、これでいいのだろうか? こんな雑用をしているだけで、あのお金を頂いてもいいのだろうか?

 身体を求められれば、差し出す決心はできている。

 具体的にどういうことをするのかは知らないけど、セックスという言葉は知っているし、それがどういった意味をもつ言葉なのかも知っている。

 旦那さまは、あたしの身体が目的ではなかったのだろうか。それとも、あたしがまだ子供だから、旦那さまには興味がないのだろうか。

 ううん。そんなことはない。

 だってあたしと同じくらいの人でも、“そういったこと”をしている人もいるらしいし、それらしい人を見かけたこともある。

 あのときは驚いたけど、もしあの人もあたしと同じように買われて来たのだったら、あれは仕方のないことだと思う。

 あたしだって、やれと命令されればやる。それだけのお金は貰っている。

 裸に首輪をはめられて、犬のような格好で屋敷の中を歩いていた、あたしと同じくらいの女の子。その人を散歩させているように鎖を引いていた、すごくキレイな外国人らしい金髪の人も、あたしより少し年上なだけだろうと思う。

 だからあたしも、“そういったこと”を望まれていないといいきれない。

 それともあたしは、“そういったこと”を望まれるくらいかわいくも、キレイでもないのだろうか。

 確かにあたしは胸も小さいし、身体も細くて薄いし、顔だってそんなに自信ない。

 でも、お母さんもお姉ちゃんもキレイだし、よくお母さん似だといわれたから、悪いってことはないと思う。

 あたしは心苦しい。

 これで、本当にこのままでいいのだろうか……。

 

「みくちゃん。洗い物終わったの?」

「はい、終わりました。清美さん」

 お皿洗いを終え、あたしは控えの間に戻った。控えの間は、あたしのような屋敷の中で雑務をしている人たちが、仕事のないときに控えている部屋だ。

 ここはとても広いので、あたしも全体を把握しているわけじゃない。でも聞いた話では、百人近い女の人と数人の男の人、そして旦那さまがいらっしゃるそうだ。

 あたしが働く屋敷のほかにも、三つほど別の屋敷があるらしいけど、あたしはそこに行ったことはない。

 旦那さまも、この屋敷にいらっしゃるわけではない。この屋敷にいるのは、御倉さまという、多分三十歳くらいの男の人が一人と、あたしを含めて二十人の女だ。

 その内、掃除や洗濯といった雑務を担当しているのが、あたしを含め十人。料理を作る人が三人。他の七人がなにをしているのか詳しくは知らないし、その七人とは顔を合わすことも少ない。もちろん御倉さまとも、顔を合わすことはほとんどない。

 清美さんは、雑務担当のリーダーだ。歳は十七歳だといっていた。ここに来て三年になるらしい。

「じゃあ、座って休みなよ。もうお仕事ないわよ」

「洗濯物の取り込みはいいんですか?」

「あっ、それは私と彩香でやっちゃったわ。今日は天気がいいから、乾くの早かったのよね」

「そうですか」

 あたしはいわれた通りに、空いている椅子に座った。

「あの、清美さん」

「ん?」

「あたし、これでいいんでしょうか?」

「なにが?」

「こんな……その、楽だとはいいませんが、これで旦那さまに頂いたお金の分の働きが、できているんでしょうか? あたし、少し心配なんです」

「……うーん。そうねぇ。私もそれは考えたことあるわ。でもね、私たちは私たちに与えられた仕事を真面目に勤めることが、旦那さまに報いるたった一つの方法じゃないかな。私はそう思うことにしたし、そうするしかないでしょ?」

「それは……そうですけど……」

「みくちゃんは後ろめたいのね」

「えっ?」

「だから、私たちみたいに雑務をこなしている子ばかりじゃないってことが。はっきりいっちゃえば、身体を使って旦那さまにご奉仕している子もいるのに、自分は雑務しかこなしていない。その子たちにも、旦那さまにも申し訳ないってね」

「……そう……だと思います。あたしは、旦那さまに身体を捧げる決心はできています。いえ、旦那さま以外でも、旦那さまのご命令なら、誰にでも……あたしは、それだけのお金を頂いていると思います。なのに、あたしは……」

「みくちゃんは、旦那さまとセックスしたいの?」

「えっ……えぇ? そ、そんなわけじゃないですけど。そ、その……あたしなんかじゃ旦那さまに満足していただけるかわからないし、まだ子供だし……それに、せっ、セックスしたこと……ないですし……」

「私もないわよ。私、まだ処女なの」

「……しょじょ……ですか? なんですか、そのしょじょって」

「セックスしたことない女の子を、処女っていうのよ」

「そうなんですか。知りませんでした」

「みくちゃんって、歳のわりにはしっかりしてるし、頭も良いのに、そんなとこはやっぱり子供ね」

 くすくすと笑う清美さん。

「あたし、しっかりなんかしてませんよ。それに、頭も良くないです。学校の成績は……確かに、クラスで一番でしたけど……でも……良くないです」

「まぁ、みくちゃんがそういうならそうなんでしょうね。それに、もう外での成績なんて、関係ないしね」

「はい。今のあたしに求められているのは、旦那さまにつくし、できるだけ満足していただくことだけです。あたしは、旦那さまの所有物ですから」

「……やっぱ、頭良いと思うわよ。そこまでわかってるなんて」

「えっ……でも、こんなことは当たり前のことです。みなさんそうではないのですか?」

「私はそうだけど、そう割り切るまでには時間かかったわよ。それに他の子には、それがわかってない子もいるわ。そういう子は……他の場所に連れていかれるけど」

「他の場所……ですか?」

「そう。この屋敷にいるのは、だいたいみくちゃんと同じように、自分が旦那さまの所有物だってわかってる子なんだけど、それがわかってない子は、この屋敷に来ても、すぐにどこか違う場所にいっちゃうのよ」

「そうなんですか」

 知らなかった。

「まぁ、みくちゃんが知らないのも無理ないけどね。みくちゃんが来てから、まだここに来た子はいないし」

「どこかということは、清美さんも、その子たちがどこにいったのか知らないんですね?」

「うん。知らないわ」

「でも……旦那さまは、どうしてこんなに多くの女の子を買うのでしょうか? その……あたしがいえることでもないのですが……」

「そうねぇ……私にも分からないわ。でも、旦那さまが私を買ってくださったからこそ……ね? みくちゃんもそうでしょ?」

「はい。旦那さまがあたしを買ってくださったからこそ、あたしの家族は救われました。あたしは家族……いえ、家族だった人たちの役にたつことができました。そのことに変わりはありません。旦那さまには、とても感謝しています」

「家族だった人たち……か。そういっちゃっていいの? 寂しくない?」

 寂しい?

 そ、それは……。

「それは……寂しいです。でも馴れなくては、受け入れなくてはいけないことだと思います。おこがましいことをいわせてもらえば、今のあたしの家族は、清美さんや、他のみなさんだと思います。旦那さまは、あたしの所有者ですので別格ですが」

「じゃあ、私はみくちゃんのお姉さんね」

「えっ……あっ、その……清美さんがそう思ってくださるのなら、あたしは嬉しいです」

「私も、こんなかわいい妹ができて嬉しいわ」

 と言って清美さんは、ぎゅっとあたしを抱きしめた。

「あっ。う……あ、ありがとう……ございます」

「クスクス……ホントかわいい。ねぇ、お姉ちゃんって呼んでみて?」

「は、はい……お、お姉ちゃん?」

「なに? みく」

「あっ……」

 みくとあたしを呼んだ清美さんの顔が、本当の、まだ幸せだったころのお姉ちゃんとそっくりで、あたしは涙が溢れた。

「ど、どうしたのみくちゃん?」

「い、いえ。なんでもないんです……その、大丈夫ですから……」

 ここ来てから、あたしは初めて泣いた。

 そしてこの涙で、あたしは家族のことを、家族だった人たちに換えた。

 さよなら。今までありがとう。

 届くことはないけど、あたしは心の中でそう告げた。

 家族だった人たちに。



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