Flame
1
「おはよう。翠」
開けっぱなしの教室の扉を潜ると、先に登校していた雪流が声をかけてきた。
「あぁ」
俺はあいさつを返し、教室の後ろのロッカーに鞄を放り込む。
教室には、すでに半数以上のクラスメイトが集まっていた。
俺が自分の席に着くとすぐ、雪流が近寄ってきた。
葵雪流は、俺のクラスメイトで、親友を言ってもいい。見た目は、白皙の美少年であり、性格は温厚だが、自分の決めたことは誰が何と言おうと譲らない、そんな頑固な一面も持っていることを、これまでの半年ほどの付き合いで分かっていた。
「翠。今日の放課後…暇?」
「あぁ」
たしか今日は空いていたはずだ。
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれよ」
「何かあるのか」
「ちょっとね」
俺は嫌な予感がした。雪流はよく他人に頼まれごとをする。俺も、その手伝いをさせられることがたまにある。
人望があるのはいいことだが、あまり他人に利用されるのはどうかと思う。しかし、それが雪流のいいところであって、俺は雪流のそんなところが嫌いではない。雪流の足りないところは、俺がフォローすればいいだけだ。
それに、雪流が他の誰かではなく、俺に協力を求めてくるのが嬉しくもあった。
「昼飯だな。今日の昼飯で手を打っておいてやる」
「えぇ。それはちょっと…うぅ、コロッケパン一個にしておいてくれよ」
雪流は慌てる。本当は何もなくても手伝ってやるつもりだが、これぐらいは言ってもいいだろう。
「じゃあ、それにフルーツ牛乳でいいぞ。俺は優しいからな」
甘いな、と思う。俺は雪流に対して、自分でも信じられないほど甘くなる。
雪流は特別だ。
そんな考えが自分の内に在ることが、俺には分かっていた。不思議だと思うが、嫌な気分じゃない。
少しだけ開けられた窓から入り込む、冷たい秋の渇いた風が気持ちよく感じた。
「で、これから何処に行くんだ」
放課後の教室。帰り支度をしている生徒や、部活の準備をしている生徒を目の端に捕らえながら、俺は雪流に尋ねた。
「図書室だよ」
「図書室?何しに」
「いいから。パンと牛乳おごったんだからちゃんと来いよ。着いたら教えてやるから」
雪流はさっさと、教室を出て行く。俺も続いて教室を出た。
放課後の図書室には、思っていたより多くの生徒がいた。
「ごめん。待った?」
そう言って雪流は、一人の女性徒が座っていた四人掛けの机の、女性徒と対面の椅子に腰を下ろした。
「翠。何してるんだよ」
雪流が、突っ立っている俺を呼ぶ。
「あぁ」
仕方なく、俺は雪流の隣に座った。
「一年B組の中村ゆかりさん。知ってるだろ? 隣のクラスなんだから」
雪流が、中村さんとやらを紹介する。もちろん、知らなかった。こんな子、ウチの高校にいたっけ。
入学して半年経つんだから、知っていて当たり前。
雪流はそう思っているんだろうけど、俺は他人の顔を覚えるのが苦手だ。特に同年代の女の子は、ほとんど見分けがつかない。
「何、知らなかったの」
呆然としている俺を見て、雪流が信じられないといった顔をする。
「ごめんね。コイツこんなヤツなんだ」
「いえ、いいんです。私、目立たないから」
確かに、中村さんとやらは、大人しそうで目立ちそうにない。しかし、なかなかの美人さんだ(と思う)。長く真っ直ぐな黒髪は液体みたいに滑らかで、彼女の小さな顔を綺麗に飾っている。
「コイツ、東城翠。知ってる…よね?」
「はい。東城さんは背が高くて目立ちますから」
何だ、俺は目立つために背が高いみたいじゃないか。だったら雪流とくらべれば、ほとんどの男子生徒は背が高い。雪流は百六十センチだと言いはっているが、実は百五十九センチしかないことを、俺は知っている。
「で?」
俺は雪流に問う。何故俺が中村さんとやらに紹介されなければならないか、まだ聞かされていない。
「あぁ、ごめん。中村さん、翠に頼みたいことがあるんだって」
「俺に」
「そうだよ」
雪流じゃなく、俺にとは。
「すみません、東城さん。私、その、困っているんです」
そりゃそうだろう。何もないのに、俺に頼みごとしようなんてヤツは雪流くらいだ。
「それで、葵くんに相談したら、東城さんなら力になってくれるかもしれないって」
「詳しく話してくれ、返事はそれからだ」
「何だよ、中村さん困ってるんだよ。まかせとけぐらい言えよ」
雪流が力む。
「安請け合いはしない。俺にも出来ることと、出来ないことがある」
「そうですよね。ごめんなさい」
中村さんが、申し訳なさそうに言う。
「謝る必要はない」
「翠。もっと優しく話せよ」
「これが俺の普通なんだよ、知ってるだろ。それに、お前らどういう知り合いだよ。初対面の人間に、困ってるから助けてくれって言われて、まかせてくれなんて言うのはお前くらいだ」
「初対面じゃないだろ、隣のクラスなんだし」
俺には初対面なんだよ。
「中村さんは、僕と中学が同じで、半年前までその中学でクラスメイトだったんだ」
「そうなんです。私、あまりお友達いないから、葵くんだったら相談しやすいし、それで」
「それで、僕に相談してくれたんだよ」
雪流が、中村さんの言葉を続ける。
「だから、取りあえず話してくれ。その頼みごととやらを」
まとめると、こうだ。
この中村さんとやらいう美少女は、最近何者かにつけまわされている。何かされたわけではないが、まぁ、恐いと。ストーカーだか何だか知らないが、面倒くさいことをする暇なヤツもいるもんだ。
それで、中学からの友達である雪流に相談したところ、俺ならなんとかしてくれるかもしれない、ということになったと。
じゃあ、俺に相談してみよう。
それで、俺がここに連れてこられたってわけだ。
そして俺に、出来れば下校の時だけでいいから、家まで送ってほしい。本当は捕まえてくれるのが一番いいが…。
と、言うわけだ。
「そうだな。別に何かされたわけじゃないから、警察も動いてくれない。かと言って、何かされた後じゃ遅い。と言うことだな」
「そうだよ。翠ならなんとかなるでしょ」
俺なら襲われても大丈夫、と言うことか。いや、むしろ誰も襲わない。
それに、雪流は俺の『力』のこと知ってるからな。それを、あてにしてるんだろう。
「分かったよ。まかせてくれ」
俺は答えた。
「本当ですか。ありがとうございます」
中村さんは、本当に安心したように微笑んだ。その笑顔は、たしかに可愛かった。
まぁ、仕方ないか。雪流がここまで言うんだしな。
「もう大丈夫だよ、中村さん。翠がまかせてくれって言ったんだから」
雪流は、自分のことのように喜んでいる。
「じゃあ。そろそろ帰ろ。あまり遅くなると中村さんち、心配するでしょ」
「えぇ、まぁ」
「そうだな、帰るか。そうだ、中村さんの家ってどの辺なんだ」
俺は、肝心の家の場所を聞くのを忘れていた。
「僕んちの近所だよ」
雪流が答えた。
「ほほぅ。だったら何でお前が送っていかない?」
「僕だけじゃ心細いじゃないか。何かあった時、僕だけじゃ中村さんを守ってあげたいとは思うけど、守ってあげられる保証はないだろ?」
確かに。雪流は喧嘩沙汰には、まったく役に立たない。はっきり言って、いない方がいい。
「そりゃそうだ。じゃあ、学校から歩いて二十分くらいだな」
俺の家とは反対方向か。まぁいいや。
俺たちは、図書室を出て、玄関へと向かった。
玄関には幾人かの生徒が居て、外から射し込むオレンジ色の斜陽が、彼らの影を細長くして地面に描いていた。
靴を履きかえて顔を上げると、雪流と中村さんがなにやら会話していた。
中村さんは雪流よりも五センチは背が低く、こうして見ると、二人は似合いのカップルのように見えた。
なぜか俺は、少しだけムッとした。なにが気に入らないのか分からないが、俺は楽しそうに見える二人から視線を外して、自分でもイヤだと感じる口調で「行くぞ」と短く吐き捨てた。
2
「どう? 翠…」
学校を離れて、十五分ほど経ったころ。俺は、俺たちの後をつけてきている気配を感じていた。
「来てるな。一人だ」
俺が小声で言うと、中村さんが後ろを振り返ろうとした。
「見ないで」
雪流が止める。こちらが相手に気づいていることを、悟られたくない。俺の考えていることを、雪流は言わなくても分かってくれる。初めて会った時から、そうだった。
「はい」
中村さんは、素直に従う。
この辺りの人通りは多い。もう少し進むと住宅街に入り、人影はグッと少なくなる。何か仕掛けて来るのなら、そうなってからだろう。
だが、中村さん一人の時でさえ後をつけてくるだけだったんだから、俺たちが付いている今、何か行動に出るとは思えないが。
「東城さん、よく分かりましたね。私気かつきませんでした」
中村さんが囁いた。
そうだろうな、まだ三十メートルは離れている。俺だって、何も知らなかったらつけられてるとは気づかなかっただろう。
「翠は普通じゃないから」
俺の代わりに雪流が答える。
俺は、答えてくれた礼に雪流の耳を引っ張ってやった。
「っ、何すんだ。痛いじゃないか」
「良かったな。生きてる証拠だ」
「もう、子供だな。そんなの小学生だって言わないぞ」
「ふふっ」
中村さんが俺たちを見て微笑をもらした。
「笑われたじゃないか」
雪流がふくれる。
「笑われたのは雪流だ。俺じゃない」
「ごめんね、葵くん。でも、東城さんって楽しい方なんですね。私、もっと…」
「もっと、恐いと思ってた?」
中村さんの言葉を、雪流が続ける。
「う、うん。あっ、ごめんなさい」
慌てたように中村さんが俺を見る。
「良いって。翠は確かに見た目恐いし、僕以外には無口だしね。もっと大人になってくれるといいんだけど」
「余計なお世話だ」
「ごめんなさい」
中村さんが、本当に申し訳なさそうに言う。
「構わない。もう慣れてる」
これでも俺は、優しい口調を意識して言った。
その時俺は、俺たちとつけてきている相手との距離が縮まっていることに気づいた。
辺りに人影はない。住宅街の影が、暗く辺りを包んでいた。辺りに点された街灯の白い明かりが、アスファルトの地面を照らし出している。
「来たぞ。走れ」
俺がそう言うと、雪流が、中村さんの手を取って走りだした。俺は相手の出方を見るために、そこに残った。
「何か用か」
俺は、目の前にまで迫った相手に言った。
相手は、三十歳前半の男だった。
男は見るからに貧相で、細く背が高い。俺と同じくらいはある、百八十センチくらいだ。
だが一番気になったことは、男の目が『死んで』いることだった。その目は、正面にいる俺を捕らえているのかどうか疑問に思えた。
「何か用なのかと聞いている」
男の反応はない。
が、突然。男が俺に襲い掛かってきた。
速いッ!
俺は咄嗟に避ける。右腕に鋭い痛みが走った。
俺を濁った目で見る男の右手には、刃物が握られていた。それは、俺の血と、間もなく完全に落ちようとする陽光に紅く光っている。
これって…正当防衛だよな? 俺はそう思って構えをとった。
男と自分との間合いをはかり、次の行動に備える。
男は動かない。しかし、俺と目線は放してはいない。
来る!
俺は、一気に男との間合いを詰め、刃物の握られた右腕に蹴りをいれようとした。
かわされたッ?
男は俺の蹴りを、体半分ずらしてかわした。
ウソだろ? 俺の蹴りをかわすなんて、コイツ何もんだ。
瞬間、男の気配が変わった。
殺気。
今までは不気味ながらも、普通の人間と変わらない気配だったにも関わらず。この瞬間、目の前に居るのは殺人鬼だと言われても、俺は疑わない。
俺は気を集中し、神経を研ぎ澄ます。周りから音が消え、男の姿が辺りの景色よりも一ランク鮮明になる。
大丈夫だ。コイツはたしかに強い…でも。
母さんほどじゃない。
俺の母さんは、幼い頃から家に伝わる武術を修練していて、その才は天才だった。十四歳で、今は亡き祖父の後を継ぎ、東城流古武術の十一代目継承者となった。
俺も物心つく前から母さんに鍛えられて、母さんの十分の一ほどの『力』は持っているつもりだ。雪流が俺に中村さんの護衛を頼んだのも、この『力』を知っていたからだろう。
俺は再び間合いを計り、男の正面に位地する。そして見た。
男の目から、赤黒い血の涙が流れているのを。
「グッギャッ!」
男か意味不明の奇声を発し、飛び掛かってきた。
クッ。
俺は上半身を動かすだけでそれを避け、男の鳩尾に膝蹴りを入れた。それはキレイに決まり、男は蹲った。
やばい…今のは内臓を殺っちまったか?
俺の心配を余所に、男は立ちあがった。口元からは、血が伝っている。
男はフラツキながらも、俺ににじり寄ってくる。
恐い。
と、思った。
そして俺がそう思った瞬間。男が笑った。
血に汚れた目と口を細め、声もなく、俺を見て笑った。
不意の笑う男の背中から、大きな蜘蛛の足のようなものが幾本も現れた。
それを見て、俺は何が何だか分からなくなった。ただ、目の前の男が忌むべき存在だと感じた…いや、分かった。
シャッ!
俺は間一髪で、蜘蛛の足のようなものをかわした。
だがその攻撃は、止むことなく繰り出される。いつまでも、かわし続けることはできない。殺るしかない。
俺はこの現実離れした状況を、なぜか当たり前に感じていた。
懐に入ってしまえばこっちのもんだ。だがその前に、あの蜘蛛の足を一回でも食らったらアウトだ。
俺の頭の中には、逃げるという選択は思い浮かばなかった。
コイツを倒す。
それだけだった。
今だ!
何度目かの蜘蛛の足をかわした瞬間、俺は男との距離を一気に詰めた。
だが、もう一本の足が同時に繰り出されていた。
俺はその足なんとかをかわした。頬を掠ったが、気にしている暇はない。
俺は、男の顔面に拳をブチ込んだ。が、男は倒れなかった。
しまったッ。
さっき刃物で切られたせいか、思ったより力が入らなかったのだ。
じゃあ、もう一発。
俺は男の腹に膝蹴りを入れ、顎に突き上げるように肘を入れる。
男は膝を折り、地面に崩れた。
まだだ!
「やめなさいッ!」
俺が、男の顔面に蹴りを入れようとしたその時。それを制止する声が入った。
「殺す気ですか?」
声の主が、俺と男の間に割り込む。
男だ。長い髪を首筋で纏めている。俺と同じ制服を着ているが、少なくとも、俺の知っている顔じゃない。
「コイツは人間じゃない」
俺は動かない蜘蛛男を見ながら、現れた男に言った。
「分かっています。しかし、この人は人間です」
「何言って…」
俺は最後まで言うことが出来なかった。
急に立ち上がった蜘蛛男が、俺たちを弾き飛ばしたのだ。
「クッ。まだ立てるのかッ?」
俺は急いで体制を立て直し、蜘蛛男に向き直る。
お節介男も立っている。
「紫焔っ」
お節介男が、御札のようなものを取り出しそう言うと、御札は瞬時にして紫色の炎になって消えた。
炎が消えたとき、蜘蛛男は再び地面に崩れた。
その瞬間。気のせいか、蜘蛛男から、影のようなものが飛び出したように見えた。
が、すぐに辺りの影に溶けて消えてしまった。
倒れている男からは、蜘蛛の足は消えていた。
「紫焔、追ってください」
男が言う。
「逃げられてしまいました。少し困ったことになりましたね」
男は独り言のように呟く。その顔は暗い影に覆われて、表情までは読めなかった。
「おい、何だいまの」
俺は男に問う。よく分からないが、この男が俺よりも、状況を理解しているのは間違いない。
「そうですね。貴方もこれから狙われることになるでしょうから、話しておいた方が良いでしょうね」
男が俺を見る。初めて気づいたが、その男は女のような顔をしていた。声が男のものだったので、今まで気づかなかった。
だが、男の声と容姿がアンバランスだと言うわけじゃない。とても自然に溶け合っている。
「ですがその前に、その人を病院に運んだ方が良いでしょう」
男は蜘蛛男に近寄って、その体を調べ始めた。
「大丈夫です。死ぬことはありません」
「だから、どう言うこ…」
「翠ッ!」
俺の質問を切るように声がした。
雪流が、こっちに走って来る。
「大丈夫か?」
この惨状を見て、驚いたように雪流が言った。
「この方は大丈夫です。ですが、こちらの方はあまり大丈夫ではありません。救急車を呼んでください」
俺の代わりに、雪流の問いに男が答えた。
「はい」
雪流が男の言葉に従って、救急車を呼びに行くためか、来た道を戻っていった。
「貴方。速くここから立ち去った方がいいですよ」
「何故だ」
「この人に、これだけの怪我を負わせたのです。ただでは済みません」
当然のように男が言う。
「正当防衛だ」
「そうかもしれませんが、やり過ぎたのです。それで言い逃れはできないでしょう」
確かに、少しやり過ぎたかもしれない。しかし、それは仕方なく…。
そうかッ。警察にどう説明するんだ? この男はバケモノで、俺は殺されそうになったから、正当防衛だと思ってこの男を叩きのめしました。とでも言うのか?
警察が、そんなこと信じてくれるはずがない。事実だとしても、見てもないのに信じるわけがない。俺だって、自分が体験してなければ信じられないだろう。
「わたしが何とかします。貴方は早く行ってください」
「分かった。だが、このことの説明はしてもらうぞ。今起きたこと全てと、これから起こること全て」
これから起こること。さっき男が言った、「貴方も狙われる」という言葉が俺は気になっていた。
「いいですよ。明日の朝、二年B組のクラスルームに来てください。そのとき全て話しましょう」
男はそう言うと、さっき出した御札を再び出した。
「緑葉」
御札が、緑色の炎となって消える。
「貴方に何かあった時は、緑葉が貴方を守ってくれます。頼みましたよ、緑葉」
「何かあるって、それにリョクハって何だよ」
「緑葉は、わたしの使役です。見えませんか?」
辺りを見回したが、俺には何も見えない。
「あぁ、見えない」
「そうですか、貴方になら見えると思ったのですが。今は時間がありません、明日説明しましょう」
遠くから、救急車のサイレンの音が聞こえた。
「明日、絶対に話してもらうぞ」
俺は来た道を戻り、駅に向けて走りだした。俺の家はこの街の隣の街に在り、俺は電車通学をしている。
「はい」
答える男の声が、俺の背中に小さく聞こえた。
陽は完全に落ち、夜の冷たい風が俺の頬を撫ででいた。
3
昨日は散々だった。
家に帰ると、俺の格好を見るなり「喧嘩したの? あれほど喧嘩はするなと言ってあるでしょ」と、母さんに口と手は出されるし、雪流は何があったんだと電話越しにうるさいし。
俺が教室に入るなり、予想していたとおり雪流が声を荒げて近寄ってきた。
「翠。昨日のことちゃんと説明しろよ」
「無理だな。俺にもよく分からん」
これは本当だ。俺はこれから、昨日の男に説明させに行くんだから。
「なっ、何だ翠。お前怪我してるじゃないか」
「今ごろ気づくなよ。それに心配ない。これはほとんど、昨日母さんにやられたやつだ」
「そうなのか? 本当に大丈夫なんだな」
「あぁ、大丈夫だ」
俺は言った。
「そうか、ならいいんだ。それにしても、おばさん相変わらず凄まじいな」
俺の様相を見ながら、雪流は感心したように言う。
「喧嘩したって言って怒ったんだ。それで、喧嘩で作った怪我の、数倍の怪我を負わされたよ」
「おばさん、翠のこと心配なんだよ」
「心配してくれてるのは分かってる。その心配のしかたが問題なんだ。普通殴るか? 母親が一人息子を。それも本気でだぞ」
「強いもんね、おばさん」
俺が受けた仕置きを想像してか、雪流は同情するような声で言う。
「強いってもんじゃない。東城流古武術の十一代目継承者だからな。十二歳の時に熊殺したって噂、多分本当だぜ」
「まさか…でも、ありえそうでイヤだな。ははっ…」
渇いた笑いを漏らし、雪流は目をそらす。
「そっ、そうだ。昨日の男の人、たしか緋渡冬夜って先輩。髪の長いあの人」
雪流が話題を変える。
「翠のこと助けてくれたらしいじゃないか」
緋渡冬夜。あの男そんな名前なのか。
「何か言ってたか? あの男」
「いや、詳しいことは何も」
「じゃあ、これから話聞きに行ってくる。二Bに来いって、昨日言ってたからな。それから、昨日のこと説明してやるよ」
雪流に説明するにも、あの男の話を聞かなきゃ、何も話せない。俺も何が何だか、丸っきり分かってないんだし。
「今からって、もうすぐ授業始まるじゃないか」
「体調が悪いって言っといてくれ。頼んだぞ。あっ、鞄ロッカーに入れといてくれ」
俺は、鞄を雪流に渡すと、何か言っている雪流を無視して、二Bの教室に向かった。
「やあ。早かったですね」
俺が二Bの教室に顔を見せるなり、昨日の男が声をかけたきた。
「説明してもらうぜ」
「いいですよ。しかし、ここでは…。場所を変えましょう」
男は教室内を見回して言う。室内には、大勢の生徒が居る。確かにここでは、話しづらいだろう。
「あぁ。でも授業はいいのか」
俺は、自分が雪流に言われたことを口にした。
「かまいません。貴方に説明をする方が重要です」
「じゃあ、屋上に行こう。あそこなら、誰も居ないだろう」
この寒いのに、朝っぱらから屋上でサボってるヤツなんて居ないだろう。
「そうですね」
男は俺に同意し、教室を出る。
俺たちは黙って屋上へと向かった。
思ったとおり、屋上には誰も居なかった。しかし、やっぱり寒い。渇いた秋風が、結構強く吹いている。
「では、何から話ましょうか」
男は言う。
「そうだな、取りあえず名前を教えてくれ。俺は東城翠だ」
雪流から、男の名前が緋渡冬夜だと聞いてはいたが、それが本当かどうかは分からない。
「わたしは、緋渡冬夜といいます」
男は言った。これが本名かどうかは、判断がつかないが、余り疑っても仕方が無い。
「じゃ、緋渡さん。単刀直入に聞く。昨日のあの男は何もんだ。あんた知ってんだろ?」
意識してではないが、詰問口調になっていた。
「あの人はただの、普通の人間です」
俺の言い方を気にした素振りもなく、当然のように答える。
「ですが、あの人に憑いていたのは、『鬼』です」
「『鬼』?」
「貴方も見たはずです。あの人の身体から出ていた、蜘蛛の足を」
確かに見た。自分で見たんじゃなきゃ、とても信じられないが、見てしまったものは信じるしかない。
「あれが『鬼』です。あの人は『鬼』に憑かれていたのです」
緋渡の言ってることは、普通に聞いていれば、頭のおかしい兄ちゃんの虚言でしかない。だが、俺は緋渡の言葉を信じ始めていた。
「じゃ、昨日の男は『鬼』に憑かれていて、あんたは、それを退治しにきた霊能者だと」
「霊能者ではありません。わたしは使霊使いです」
緋渡は、俺の誤りを訂正した。
そうなのだ。緋渡はその使霊使いとやらで、三日ほど前からあの男を、見張っていたとのことだった。
使霊使いと言うのは、使役と呼ばれる幽霊みたいなもんを使い、『鬼』を退治する人たちのことを、そう呼ぶらしい。
緋渡には三人の使役がいて、昨日使った御札で呼び出すそうだ。
しかし緋渡には、あの男が『鬼』に憑かれているという確信は持てなかった。『鬼』の気配があまりに微弱だったため、だと言っていた。
だが昨日の俺との戦いで、『鬼』は力を使った。その力を感じ取り、緋渡はあの現場に駆けつけた。
そして、俺とあの男を助けた。あのままだと、俺が男を殺してしまうかも知れなかったからだ。『鬼』は、物理的に攻撃を与えることはできないらしい。俺は『鬼に憑かれた男』を痛めつけただけで、『鬼』には何のダメージも与えてはいなかったそうだ。
だが『鬼』は、緋渡が呼び出した使役を見て逃げてしまった。『鬼』にとって、使霊使いと使役は、唯一と言ってしまってもいいほどの敵なんだそうだ。
「ですが『鬼』は、人間に寄生しないと長くは生きられないのです。『鬼』は人間の『想い』を食べて生きているのです。深く、そして純粋な『想い』を『鬼』は好んで食べます。そのような『想い』を持っている人間に、『鬼』は寄生します。そして、『鬼』に憑かれた人間は、必ず狂います」
狂う。そうか、それで昨日の男は……。
「でも、『想い』ってどんな『想い』なんだ」
「何でもいいのです。善悪は関係ありません。より深い、より純粋な『想い』。その持ち主を探して『鬼』は行動します」
「ふーん。で、『鬼』ってどのくらい居るんだ」
「あまり多くはありません。わたしたちがこれまでに会い、消滅させたのは三匹です。一匹、手負いで逃してしまったことも在りますが、今度の『鬼』はその『鬼』とは違います」
「じゃあ、俺も『鬼』に寄生される可能性はあるのか」
「それは大丈夫でしょう」
「何故?」
「あなたに、『鬼』に憑かれるほどの『想い』を感じないからです。しかし『鬼』は自分に危害を加えた者に、必ずと言っていいほど復讐するのです。多分、貴方とわたしは、あの『鬼』に狙われるでしょう」
なるほど。「貴方も狙われる」、あの言葉はそういうことか。
冷たい風が、緋渡の長い髪を連れ去ろうとするかのように、大きく舞わせた。
俺は、一時限終了を待って、教室に戻った。雪流の質問には、当たり障りのない答えを返したが、雪流が納得したとは思えなかった。だが、何と言うんだ。とてもじゃないが、緋渡の言ったことを話す気にはなれない、話しても信じてはもらえないと思った。
それに、
「このことは、他人に話さないでください。もっとも、話ても信じてはもらえないでしょうが」
最後に言った緋渡の言葉が、俺に釘を刺していた。
だが、ことを曖昧にした一番の理由は、このことに雪流を巻き込みたくなかったからだ。
雪流になにかある。雪流が怪我をして、血を流して、苦しんで…。
イヤだ。そんなのは絶対イヤだ。
雪流には、いつでも頬笑んでいてほしい。
出来れば…俺の隣で…。
ずっと、これからもずっと、俺は雪流と一緒に居たい。
雪流は俺に手を差し伸べてくれた、最初の…大切な親友だから。
4
いくつもの人影が俺を囲んでいる。だがその顔は、真っ黒で誰だか判別がつかない。
「…まぁ恐いわ…カズちゃん、あの子に近寄っちゃダメよ」
「私生児ですって。それに14歳で子供を産むなんて、最近の子はなにを考えてるのかしら? え? 家のマナミは大丈夫よぉ。あの子は『そんな子』じゃないもの」
…うるさい…黙れ…。
「もういいじゃないかよぉッ! 許してくれよぉ…」
「す、すみません…あんたが、あのスイさんだって知らなかったんだ。ホントだ…だから…」
聴きたくない…黙れ。
「ごめんね。スイくんと遊んじゃダメって、ママが…」
「トウジョウさん。今度のクラス会の…あっ、いいの…ご、ごめんなさいッ」
黙れよ…聴きたくないっていてんだろッ!
もうテメーらどっか行けよッ!
俺がなにしたってんだッ? なにもしてねーだろッ?
全部…全部テメーらが勝手にッ!
なんで俺を苦しめるんだッ!
なんで俺を…。
クソッ!
黙れッ! だまれッ! ダマレッ!
テメーら全部、どっかに消えろおぉッ!
「…い…翠ッ」
雪流の声に、俺は眼を醒ました。
心配そうに雪流が俺を見ている。
「大丈夫か? 随分うなされていたぞ」
夢をみていた。とても嫌な夢だったと思う、覚えていないが…。
「あぁ」
「そうか。だったらいいけど」
教室にいる生徒が、随分少ない。
「もう昼休みだぜ。お前、四時限目の途中から寝ちゃってただろう」
「そうか。ウッ…」
頭に、割れるような激痛が走った。
「おっ、おい」
痛みは一度だけだった。痛みが去った後に、昨日のあの男の笑い顔が、俺の頭の中に映った。
まさか? 『鬼』か?
『そうです。屋上です』
俺が思った瞬間。頭の中に声がした。緋渡の話し方に似ていたが、それは女の声だった。
「雪流。ここにいろ。絶対だぞ!」
俺は、そう言って教室を飛び出した。
真っ直ぐに屋上に向かう。
途中で何人かにぶつかったようだったが、気にしてはいられない。
俺は屋上のドアをくぐった。
「気をつけてください」
俺が屋上に姿を見せた瞬間、すでにそこにいた緋渡が言った。
俺には、はっきりと見えた。
『鬼』の姿が。
二メートル以上の、大きな蜘蛛のような『鬼』だ。
半透明で、後ろが透けて見えた。『鬼』と重なるように一人の人間が居る。英語教師の向だ。
『鬼』に寄生されたんだ。俺には何故か、確信したかのように分かった。
よく見ると『鬼』の内の向は、血に染まったナイフを握っていた。
屋上には十人ほどの生徒が居て、ほとんどが呆然と突っ立っている。ただ、一人の女性徒が、座り込んで声に成らない奇声を発していた。腕の辺りから出血していたが、大したことはなさそうだ。
「紫焔、みなさんを守ってください」
緋渡が、御札を取り出し使役を呼ぶ。
緋渡の使役は、「紫焔」、「緑葉」、「白水」の三人だと言うことは、午前中の話で聞いていた。緑葉は今、護衛として俺に付いて居てくれているらしい。
そうか、さっきの女の声。
『はい、わたくしです。東城さま』
また頭の中で声がした。間違いない、緑葉だ。でも何故俺に緑葉の声が聞こえるんだ。緑葉の力か?
『違います。ですが、ご説明は後で。今は『鬼』の方が先でございます』
「東城くん!」
緋渡は、ここにいた生徒を非難させようとしている。
『来ます』
緑葉の声に、俺は我に返った。
俺に向かって、『鬼』が急速に近づいて来る。
『鬼』が蜘蛛の足を振り上げる。
クッ。
『鬼』の足を、俺は咄嗟にかわしたが、完全に避けることは出来なかった。右肩の辺りに痛みが走った。だが、大したことはない。
『鬼』が二撃目を出す。
これは完全にかわした。だが、俺に打つ手はない。
『鬼』に物理的攻撃は効かない。そう言った緋渡の言葉を思い出す。
どうする…。
昨日みたいに、『鬼』の宿主をぶっ飛ばすか。『鬼』は宿主が居なければ、人間に危害を加えることが出来ないらしい。
だが、俺には自信がない。
『鬼』の宿主となった向を倒すことは、多分出来る。しかし、手加減が出来る自信がなかった。俺が本気で向に攻撃をして、向が無事で居るという保証はない。
考えながら『鬼』の三撃目をかわし、俺は緋渡を盗み見た。
「緋渡ッ!」
緋渡は、最後の生徒を無理やり追い出したところだった。
「白水」
緋渡は使役を呼ぶための御札を出し、叫ぶ。御札は、白い炎となって消えた。
その瞬間、俺は掌に熱を感じた。
俺は掌を広げた。そこには小さなガラス玉が在った。
何だこれ?
俺が思ったその時。ガラス玉が白い光りとなって消え、次の瞬間に俺は、一振の剣を握っていた。
日本刀のような、所謂、刀ではない。TVゲームに出てくるような、西洋風の両刃の剣だ。長さは一メートル弱ほどだろうか、片手で使う物じゃない。俺は両手を剣に添えた。不思議と重さは感じない、だがしっかりとした手応えは在る。
これを使えってわけか。
俺は『鬼』に向かって、剣を構えた。自然な動きだった。身体がこの剣の使い方を知っている、俺はそう思った。いや、剣が俺の身体を動かしているのか。だが、そんなことはどうでもいい。
俺は振り下ろされる『鬼』の足を、剣で受ける。やはり、身体が考えるよりも先に動いた。
引き戻される足と同時に、『鬼』は足を俺に繰り出す。俺はそれを読んでいた。俺の一振で、二本の『鬼』の足が空に舞う。紙を切るような、軽い手応えだった。
すげぇ。
『鬼』は傷口から、緑の体液を滴らせて、何か耳障りな声を上げている。『鬼』の内に居る向も、右肩を押さえて蹲っていた。しかし、向に外傷は見当たらない。
俺はホッとした。
何も考えずに剣を振るってしまっていた。もし、『鬼』を傷つけると、その宿主まで同じ傷を受けていたら、俺はとんでもないことをしてしまうとこだった。
『鬼』はその大きな蜘蛛のような体を、何度も震わせている。俺に向かってくる気配はない。
思ったより、呆気ないな。
俺は『鬼』に止めを刺すため、近づこうとした。
「まだですっ!」
緋渡の叫びと同時に、『鬼』が俺に飛び掛かってきた。
しまった!
が、『鬼』の攻撃が俺に当たることはなかった。俺と『鬼』との間に、透明な壁が在ったかのように、『鬼』は俺の直前で跳ね返された。
『今です、東城さま』
緑葉の声が聞こえた。俺は体制を崩している『鬼』に一気に詰め寄り、その頭に剣を突き刺した。
その瞬間、『鬼』が声もなく砂のように崩れて消えた。あとには、気を失っている向だけが、地面に横たわっていた。
エピローグ&プロローグ
「で、俺にどうしろと?」
あれから二日後の昼休み、俺は緋渡に呼び出された。屋上は出入り禁止となっていたが、俺達はその屋上にいた。
どうやら『鬼』を消滅させたあの剣、白水は俺にしか扱えないらしい。緋渡が言うには、「僕には素質が無いのです」だそうだ。
「ですから、協力してほしいのです」
「いやだ、と言ったら?」
「無理やりにでも、と言いたいところですが、あなたのお母様と僕は顔見知りでしてね。お母様は快くあなたの協力を了承してくださいました」
「何っ、母さんを誑し込んだのか!」
「人聞きが悪いですね、お許しを頂いただけです。ですがこれであなたは、僕に協力しないわけには行かなくなった、というわけです。お母様の恐ろしさは、あなたが一番よく分かっていると思いますが」
そう言って微笑む緋渡の顔は、ある意味俺には、『鬼』に取り憑かれた男が見せた笑い顔と同じにみえた。
『これからも、宜しくお願いいたします』
その笑顔と共に、嬉しそうな緑葉の声が俺の頭の中に聞こえた。
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