水面には月の影
冴月音子(さえつき おとこ)は不審に思っていた。このところ、霊たちの動きが活発になっている。
彼女は13歳とはいえ、古来から悪霊退治を家業(と、音子は思っている)にしてきた、冴月家の退霊師だ。そのうえ若いながらも、退霊師としての能力は確かなもので、ここ数十年で音子ほどの能力者は、冴月家にはでていないといわれているほどである。
冴月家一の能力者として名を残しているのは、冴月継人(さえつき つぐひと)であろう。彼は、音子の曾祖父の兄にあたる人物である。百年ほど前に悪霊退治に向かったまま戻ってこなかったが、彼が築いた〈結界〉は、今も冴月本家の「封印の間」で働いていて、ここ百年、「封印の間」に足を踏み入れることができた者はいない。今でも、彼が施した〈結界〉が〈力〉を発揮しているということだ。
なので、「封印の間」には一振りの剣が封印されていると伝えられているが、それが事実なのか確かめた者はいない。「封印の間」は、いずれ誰かの手でその〈封印〉を解かれるまで、〈封印〉されたままなのだ。
その「封印の間」の前を通り過ぎ音子は、祖母でもある当主の元へと進んだ。
「お呼びだと伺い参りました」
「そのように畏まることはありませんよ。音子さん」
祖母とはいえ当主を前にして畏まる音子に、当主……冴月咲木子(さえつき さきこ)は優しい声で告げる。彼女は六十を超えているはずだが、その髪は黒々としていて、四十代といっても通じるだろう若々しさだ。
「お仕事です」
告げる咲木子。
「はい」
答える音子。
「いってもらえますか」
「はい」
「詳しいことは、綾辻が把握しています」
綾辻丹(あやつじ まこと)。年齢は31歳。性別は女性。冴月家に仕える、元霊能者である。元……というのは、かつてもっていた霊能力を、今は失ってしまっているからだ。
祖母と孫の会話としては、簡潔でそっけないもの。しかしこれ以上を語り合う必要はない。音子は祖母に向かい深く頭を下げ、部屋を後にした。
綾辻から仕事の詳しい内容を確かめた音子は、少し遅くなってしまった夕食を採るために、採食部屋(と、冴月家では呼ばれている、食事を採るためだけの部屋)へと移動していた。
板張りの長い廊下。角を曲がると、人影がみえた。それは音子の従姉、冴月聖歌(さえつき せいか)だった。
「どうしたの? 聖歌お姉ちゃんが家にくるなんて、めずらしいね」
聖歌に近づき、声をかける。この、三歳年上の従姉と会うのも、一年以上ぶりだ。
「えぇ。お祖母様に呼ばれたの」
「お祖母ちゃんに?」
「えぇ、もしかしたら……」
小さな声で、なにごとかを呟く聖歌。
「ん? なに?」
「えっ? あ、あぁ、なんでもないわ。じゃあ、また後でね」
音子が歩いてきた方向へと、聖歌が脚を踏み出す。と不意に、聖歌が凍りついたかのように立ち止まり、音子の顔を凝視した。心なしか顔が青ざめ、その唇が微かに震えていた。
「お、音子……ちゃん?」
「うん? なに?」
音子と聖歌の狭間を数秒の沈黙が流れ、
「……あなたは、間違っていないわ」
聖歌がいった。
音子は不思議そうな顔してから、にかっ……と笑顔を作り、
「当ったり前田のササミハイチよ!」
その答え今度は、聖歌が不思議そうな顔をする番だった。
☆
電車を降りると、潮の香りがした。車内からみえた海からだろう。潮騒が聞こえてくる。
音子は一つ深呼吸して、
「……よっし! いくかッ」
気合いを入た。
依頼主の家に到着した。そこは、古い日本家屋だ。だが、音子の家も古い日本家屋なので、彼女には珍しくもなかった。
今回の仕事は、この家に住み着いた悪霊を除霊すること。
「ごめんくださいませ。ご依頼を受けてやってまいりました、冴月の者です」
音子の声に玄関を開けて姿を表したのは、顔色の優れない老婆だった。老婆はみるからに疲労していて、このまま病院に担ぎ込まれても不思議ではないような有り様だ。
「あ、あの……冴月、です」
(だ、だいじょーぶ? このおばあちゃん……。このまま、ポックリいっちゃわないかなぁ)
「あぁ……お待ちしておりました。霊師様」
老婆は、やってきたのが未だ幼い少女であったことを、そして身につけているものが、到底霊能者とは思えない、白を基調にしたセーラー服であるということも気にする様子はなく、丁寧に頭を下げて音子を屋内へと迎え入れる。事前に、やってくる退霊師について、なにか聞いていたのだろう。「そちらに伺う者は、年若い者ですが、有能な退霊師です」……とでも。
屋内へと身を移した音子は、この家を満たす淀んだ空気を感じていた。
霊の気配だ。間違いなく、いる。
だが、敵意は感じられない。生者に害をなそうとする霊ではない。だが、これほど強い霊気が満ちた家で暮らしていれば、暮らす者になにかしらの影響が及んでいても不思議ではない。
霊気が一番濃厚な場所を探り、音子が家を歩く。
(ここだ)
ぴったりと襖で閉じられた部屋。
「ここは、どのような部屋ですか?」
音子の後ろについて、共に移動していた老婆に訪ねる。
「は、はい……以前、わたくしの息子が使っていた部屋ですが、息子は二十年も前に亡くなりまして、それから、そのままになっております……」
亡くなった息子の部屋。意味ありげだが、まったく関係ないかもしれない。取りあえず、中の様子を確認してみるしかない。
音子が、そっと襖を開く。
と、六畳ほどの和室の中心に、髪を結った和服姿の女が座っていた。一目みて、その女が霊だと、音子にはわかった。
その霊は、外見上20歳前後にみえたが、霊を外見で判断することはできない。霊は、死んだ時の姿のままでいる方が珍しい。100歳で亡くなった者が、十代のごとき姿の霊となって彷徨っていることもあるのだ。
女の周りには、なにやら青白い靄が立ちこめている。その靄も、霊だ。幾体もの霊が混ざり合い、女の霊の周囲を取り囲んでいるのだ。
(おばあちゃんを、この部屋に入れるのは危険かもしれない)
音子は思い、老婆に部屋から離れるようにいうと、一人で部屋に入り、襖を閉めた。
女の霊が、音子に顔を向ける。
生者と死者。死という〈結界〉を隔てた、〈異種〉。その〈異種〉同士の視線が交わる。
『あなたは、誰ですか?』
言葉を発したのは、霊の方だった。どうやらこの霊には、音子の姿がみえているらしい。そして、〈会話〉ができるようだ。霊の中には、なにもみえず、言葉を忘れてしまっているモノもいる。
「あなたこそ、誰なの? あなたは、この家のモノなの?」
霊が首を横に振った。
「あなたにまとわりついているモノたちは?」
意識……といえるだろうか、ともかく〈会話〉が成立するほど「しっかり」としているのは、この女の霊だけだ。女の霊を包み込んでいるような靄の霊たちには、音子の言葉を理解できるほどの「安定性」を感じることはできない。
『この方々ですか? さぁ……わたしにはわかりませぬ。わたしは、ただ、あの方と約束を交わした場所へと、あの方が待ってくださっているはずの場所へと、至りたいのです』
女の霊は悲しげに目を伏せ、
『辿り着きたいのです。あの方と約束を交わした、あの浜辺へ……』
悲しげに呟く。そして霊は視線を音子に戻すと、
『あなたが、わたしをこの場から連れ出してくださるのですか?』
請うようにしていった。
「連れ……出す? あなたは、望んでここにいるんじゃないの?」
『いいえ、違います。わたしは、ここから動けないのです』
(縛されている? なぜ? 誰がそんなことを?)
これほど「安定」している霊だ。自らの望む場所へと、移動できないとは思えない。だとしたら、なにかしらの理由があって、ここに「束縛」されているのだろう。
しかしその理由までは、音子にはわからなかった。
「あなたは、いつからここにいるの?」
『……さぁ? わかりませぬ。ですが、長い時をここに座しているようにも思えます』
「そう……ならあなたは、自分が死者であることを、理解している?」
『し……しゃ?』
霊は不思議そうな顔をした。
「あなたは、もう死んでしまっているの。それは、わかっているの?」
音子の言葉に、
『いいえ……わたしは、生きております』
はきっりといいきる、女の霊。
霊は、あまり多くのことを認識できない。そして、自分に都合の悪いことは考えない。興味がないというのとは違う、考えようとしないのだ。もしかしたら、考えられないのかもしれない。この霊は、自分がまだ生きていると思いこんでいる。死を悟らせることはできないだろう。
退霊師とはいえ、音子にも霊のことが完全に理解できているわけではない。いや、わからないことの方が多い。
『なぜ、そのような戯言でわたしを惑わすのですか?』
今にも泣き出しそうな顔をする霊。その表情は、あまりにも「人間」らしい。
「ち、違うっ! あなたは死んでる! 死んでるのッ」
どこか苦しげな悲鳴のように、声を荒げる音子。霊は、『なぜ?』……と、繰り返した。
音子は、一瞬泣き出しそうな顔をして、一つ、小さな溜息を零すと、次の瞬間には凛々しい顔つきで女の霊に視線を突き刺した。
そして、
「あやこましかり、ななつのいましめななつのつるぎ。かぜよとくはえ、ほむらよおおしくまえ、ちりゅうよおんてをあげもちてぎょくせきにおけ」
流れる〈呪文〉。紡ぐ音子にその意味は理解できていない。ただ、〈決められた文句〉を発しているだけだ。しかし彼女は、額の中心から身体全体に熱が拡がってくるのを感じていた。
頭が熱い。手足の先まで伝わる熱さ。胸の奥に〈燃える氷〉が生まれる。イメージだ。氷が燃えるわけがない。だが音子は、確実に、胸の奥で〈氷〉が〈燃えて〉いるのを感じていた。
〈力〉が溢れてくる。音子の小さな身体全体に、〈力〉が満ちる。
(あたしは、負けないッ!)
負けない。なにに? 悪霊だ。目の前にいる、敵にだ。
だが、本当に敵なのだろうか? この、悲しげな顔で座り込んでいるだけの女の霊は……。この霊は、なにかしらの理由があって、ここに繋がれてしまっているのだ。望んでここにいるわけじゃない。もちろん、霊の言葉に嘘がなければ……だが。
しかし音子には、この霊が嘘をついているとは、とてもではないが思えなかった。
音子に迷いが生まれる。このまま、この霊を消し去ってしまっていいのだろうか……と。
理由がわかれば、この霊を望む場所へと連れていけるかもしれない。それてしかる後に、「成仏」させてあげればいいのではないか。いや、この霊を望む場所へと連れていくことができれば、霊は自ら「成仏」するかもしれない。
だが……それは、もってはいけない迷いだ。
女の霊がここの繋がれている理由を、音子が探り当てられるという保証はない。あまりにも不確かだ。
だから、「そんなこと」はできない。彼女はここを「占拠」している霊を「退ける」ために、ここにきたのだ。「退ける」ことが、彼女の「仕事」なのだから。
(あたしは、これまでもそうしてきた。そして、これからだって……)
覚悟を決めるしかない。
(あたしは退霊師、冴月音子よ!)
覚悟は、決まった。
音子の心の内に、自然と〈記号〉が浮かぶ。その〈記号〉には、〈レデュヴァン〉という「意味」が宿っていた。音子は紡ぐ。言葉として。音として。
「レデュヴァン!」
〈なにか〉が現れる。〈力〉だ。強大な。例えるなら〈それ〉は、大蛇のごときモノだ。長くうねるモノだ。音子の身体に巻きつき、彼女の〈力〉となっていく。
音子は〈力〉が全身にいき渡ったのを理解し、眼前の虚空で右手を一振りする。すると、なにも手にしていなかった彼女の、右手人差し指と中指に挟まれる形で、いつの間にか真白い札が現れていた。
「我が御神の名をもって、汝らの存在を禁ずる」
言葉と同時に音子が札を霊たちに向ける。と、白紙に幾何学的な〈紋様〉が浮かびあがった。
真剣な顔で女の霊を睨む音子。だが睨まれたほうは、無感情な瞳を音子に向けたままだ。
「御神の名を、流如(ルシキ)と申し奉る」
そして、そんな表情のまま女の霊は、他の霊たちと共に、風にさらわれる砂細工の如く、脆く、儚く、崩れ去っていった。
なにも残すことなく、その存在を……消した。
霊たちが消え去ったと同時に、この屋敷にまとわりついていた淀みもなくなった。音子は依頼された仕事を完遂したのだ。部屋を後にした彼女は、不安そうな顔で彼女を迎えた依頼主に、
「終わり……ました」
と、告げた。
依頼主は本当に安心した表情をして、何度もなんども「ありがとうございました」と繰り返し、音子に頭を下げる。
音子はどこか無愛想な口調で、
「一応、〈封印〉をさせていただきます」
「えっ……? ふういん……とは、な、なんでしょうか?」
「お家の中に、お札を数枚貼らせていただくだけです。念のためです。ご依頼の除霊は、成功いたしました。もう、ご心配はありません」
「あ、そ、そうでございますか。ありがとうございます。霊師様」
音子は、
「仕事ですから」
と口に出そうとしたが、それはしなかった。
ただ、普段の彼女からは想像もつかない、大人びた、愛嬌のない顔で、
「はい」
とだけ、深々と頭を垂れる老婆へと発した。
自分は今、とても不愉快な気分になっている。音子は理解していたが、なぜそうなっているのかまでは、理解できていなかった。
☆
音子が屋敷から出ると、外は暗く、白い十三夜の月が中天に浮かんでいた。
サー……サー……
聞こえるのは潮騒の音色。香るのは、仄かな潮の香り。
『辿り着きたいのです。あの方と約束を交わした、あの浜辺へ……』
この潮騒を奏でる海が、波が打ち上がる浜辺が、「約束の浜辺」なのだろうか。そこまではわからない。そして二度と、わかることはない。
(考えるな!)
自分にいい聞かせる音子。
考えてはダメだ。ここは生者の世界。自分が属しているのは、生者の領域だ。あれは霊だった。死者だ。かつて生者だった、死者だ。
死者と生者は交わっていけない。そもそも、死者がこの生者の世界に「立ち止まって」いること自体が、「摂理」をねじ曲げているのだ。
ねじ曲がっているものは、矯正しなければならない。その「作業」に感情が入り込む余地はない。感情を入り込ませてはいけない。彼女はそう教えられ、育てられてきたのだ。
死者は、死者の世界へと送る。それが、「摂理」を守ることなのだと。例えそれが、どのような存在であっても。それが、音子の「仕事」なのだ……と。
歯を食いしばる。強く、瞼を閉じる。
だが……どうして?
どうして、こんなにも悲しいのだろう……?
強く閉じた瞼。閉じているはずの。
しかし音子の頬を涙が伝い、その雫に、月光の白が反射する。
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉を、音子は零した。
いったい、誰に対しての?
とてもイヤな気分だ。胸の奥がザワザワとする。
悲しげに目を伏せた女の霊の姿が、音子の脳裏に浮かんだ。
「ご、ごめん……なさい……」
潮騒が静寂を壊し、やがて、その音色に少女の嗚咽が重なっていった。
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