海中の月

 

     「序文」

 

 あなたへの〈想い〉が強くなり過ぎるのはこわい。叶わない〈想い〉だと理解しているから。

 それでも、ずっとあなたを好きでいたいです。

 あなたを好きになった自分を、誇りに思っていたいです。

 だからこれは、あなたへのメッセージ。

 けして届くことはないとわかって綴る、あなたへのメッセージ。

 

 泣きたいほど、あなたが好きです。

 

 

     「おわりのないせかい」

 

 非現実への扉は思いもよらない場所で唐突に開くものなのだと、彼は思い知らされていた。もちろん、そんなことを教えてくれと彼は誰にも頼んだ憶えはない。

 彼はごく普通の(と自分では思っている)高校一年生であり、風呂からあがって自分の部屋に戻ると、半透明で向こう側が透けている見ず知らずの少女が部屋の真ん中に立っているなんて事態は、想像したこともなかった。

 彼はその少女(歳は十歳前後だろう)を呆然と眺め、「幽霊って初めて見た」などと、適切なのか適切ではないのか判別がつかないようなことを考えていた。

 錯覚だとは感じなかった。それにしては、あまりにも少女の姿はハッキリし過ぎている。

 見慣れた自分の部屋。そこに立っている見慣れない少女の幽霊。

「あなた……だれ?」

 少女が発した言葉らしきものが、祥司の頭の中に直接入り込んできた。

「キミこそ……誰……だ?」

 当然といえば当然の問い。ここは、彼の私室なのだから。

「そう……あなたが次の……。ごめんなさい、あたしたちには〈おわりのないせかい〉はつくれなかったの。だから……」

 彼の問いには答えず、少女は意味不明な言葉を紡いだ。

 そして。

「お願いします。『約束』を果たしてください。あたしたちは、果たせなかった『約束』を……」

 言葉を残し、少女は消えた。

 初めから少女などいなかったかのように、見慣れた部屋を彼に返して。

 

 

     「水槽の魚」

 

 青白い水槽の明かりが、ベッドの上で交わるわたしと彼をうっすらと照らし出している。水槽の中から、三十センチほどの彼女がわたしと彼のセックスをじっと眺めていて、わたしは落ち着いて彼と愛し合うことができない。

 見られている。

 イヤだ。気持ち悪い。

 どうして彼は平気なのだろう。

 ……わかってる。それは、彼女が〈人魚〉だから。

 〈人魚〉は人間じゃない。魚だ。

 わかってる。

 そんなことくらいわかってる。

 わたしが変なの。〈人魚〉を擬人化してみてしまう。〈人魚〉の上半身が、人間の姿だからかもしれない。

 〈人魚〉を飼うなんてそれほど珍しいことじゃないし、趣味が悪いというわけでもない。

 だけど、わたしはイヤ。

 どうして昔の人は、〈人魚〉なんて創ったのだろう。

 〈人魚〉がかつては空想の中だけの存在だったことくらい、わたしだって知っている。どうして〈人魚〉を、空想の中だけの存在にしておくことができなかったのだろう。そのほうが、なんとなくロマンチックだと思うのに。

 彼の〈人魚〉はまだ子供。こんなこと考えるのこそ変だけど、見た目、人間の年齢に換算して六、七歳くらい。

 幼い身体(上半身)を隠すこともなく、長い銀髪を水に漂わせて、感情のない瞳でわたしたちをみている。

 なにを考えているのだろう。なにを思って、わたしたちをみているのだろう。

 彼が後ろからわたしに押し入ってくる。

 痛い。

 わたしの部分は濡れていない。彼を受け入れる準備が整っていない。だけど彼は、そんなこと関係なく押し入り、肉のぶつかり合う音を奏でる。

 気持ちよくない。

 初めて彼と結ばれたときの幸福感を、わたしはもう忘れてしまった。

 少し……悲しい。

 人間なのだから、行為に馴れるのは当たり前のことなのに、わたしは彼と交わり身体を重ねることでの変わることない幸福感を望んでいる。

 子供だったころと変わらず、愛されることで得られる幸福感を望んでいる。

 義務化された作業のようなセックス。

 ねぇ……あなたは、なにを思ってわたしたちをみているの?

 心の中で、〈人魚〉に問いかけてみた。

 当たり前だけど、返答はない。

 〈人魚〉は内側から水槽に手の平を押しつけて、まばたきもしないでわたしたちを凝視している。

 なにが面白いの? わたしたち、そんなに変……?

 いつの間にか、彼がわたしの中に放出していた。

 わたしは抜かれてから気がついた。

 ドロリと生暖かい精液が中から溢れ、わたしの太股を伝いおちる。

 彼はわたしの前に回り込んで、汚れたペニスを差し出した。

 わたしは無言で彼のペニスを口に含んで洗う。

 鼻を突く精液の匂い。吐き気がした。意味もなく泣きたくなった。

 チラリ……〈人魚〉に目を向ける。

 彼女は突然わたしたちに興味をなくしたかのように、優雅に水槽の中を泳いでいた。

 わたしは彼に気づかれないように、一粒だけ涙を零した。

 

 

     「海中の月」

 

 たいへんだ! お月さまが海に墜ちた。

 ボクらは急いでお月さまの側へいったよ。

 お月さまは、

「ベルクルド。ヘグア、アリ、ベルクルド」

 って、それはもうすっごく泣いていた。

 ボクたちは、

「クリア、ダ、ゲルクルド。ゲア、ゲルクルド!」

 って慰めたけど、お月さま、ぜんぜん泣きやんでくれないんだ。

 そりゃそうだよね。お月さまは、海に墜ちるのは初めてのことだし、もしこんなことが創造神ラーフさまにバレたら、愚者にされてしまうかもしれないもん。

 愚者はキツイよね。時間神フユミさまみたいにさ。うん、あれはキツイよ。

 ボクたちはお月さまが好きだから、愚者になってほしくない。

 誰だって、好きなバグダに嫌われたくないし、ダーレンにも写されたくないもんね。

 ダーレンに写されるのは恐いよ?

 ガリルの子を知ってるよね。ガリルの子はダーレンに写されて、屑星になっちゃったよね。赤く白くもえて、マミの下にいっちゃったよね。

 ……ブルル!

 あぁ……恐いこわい。

 だからボクたちは、心のそこからこう告げるんだ。

 お月さまに、こう告げるんだ。

「タイス! タイス、ラ、エダム!」

 お月さま、すこしだけ浮かんで、すこしだけ蒼くなって、すこしだけ笑ってくれた。

 ボクたちはタイスにお礼をいって、お月さまの周りを泳いだんだ。

 星海にまで届けと、ボクたちの〈うた〉を詠ったんだ。

 

「ペイス、クア、サクデス(あなたの希望が、あなたに届きますように)!」

 

 

     「エダムの羽根」

 

 紅い夢をみる。

 紅い世界。

 土の中にはバラバラにされた人形が埋まっていて、みえないけど、埋まっていることはわかる。

 ボクは脅え、でも、どうしてもバラバラにされた人形がみたくて土を掘り返す。

 紅い空。紅い土。紅い……あかい……。

 そう……まるで、血のように紅い世界。

 ボクは土を掘る。

 白い、人形の腕が現れる。

 ぞくり。

 背筋が凍る。

 土を掘る。

 もっと、もっと、もっと深く!

 

 紅い夢をみる。

 紅い、世界……。

 

 ボクは絶叫し、嗚咽して目を醒ます。

 

 

     「四番目の天使」

 

 黒い翼。黒い髪、黒い瞳。四番目の天使は、黒い天使。

 紫鳥のような玲瓏な声。世界樹の下から希望を詠い、満たされない世界を満たそうとする。

 そう、なんて傲慢な四番目の天使!

 けらけらとカエルが嗤う。蒼ウサギが吐血して朽ちる。

 絶望を斬る剣は〈少女〉の手にあり、〈少年〉は静神アランの下へと旅だった。

 無駄なんだよ。四番目の天使。

 座標は見えているのかい? ゼロじゃないかい?

 風虫が四番目の天使の黒髪を狩り、二番目の天使に捧げる。

 世界樹の上、二番目の天使が紅い……そう! 紅い、紅い、紅い!

 黒は紅には敵わない。

 同じさ。

 まるで相似さ!

 ギシギシしてるね。

 海に墜ちた月のように愚かだ。

 右回りにね。

 〈少女〉はいった。

「さようなら」

 と。

 ねぇ、四番目の天使。

 面白いことを奪ってあげよう。

 海に墜ちた月だけじゃなく、なにもかもが滑稽で愚かと化すように。

 鏤骨が世界樹を溶かすように。

 

 ねぇ……四番目の天使。

 

 

     「やくそくのとき」

 

 降り積もった雪に月光が乱反射して、世界の形を淡く浮かび上がらせている。

「柳ッ!」

 俊平の声に、柳幸人は静かに振り返った。

 幸人の男らしい整った顔には、なんの感情も宿っていない。芸術性を重視したマネキンのようだと、俊平は思った。

「さやかを殺したのはお前だなッ!」

 俊平の脳裏に、切り刻まれ、原型も止めていなかったさやかの亡骸が、モノクロで映し出された。

 さやか。

 告げることはできなかったが、九年前、中学一年のときにクラスメイトとして出会ってから、ずっと『好き』だった。忘れることはできなかった。

 なぜ俺は、こんなにも揺るがない想いを告げることができなかった?

 告げることができていれば、なにかが違っていたかもしれない。そう、今とは、この現実とは違っていたかもしれない。

 俊平は銃口を、真っ直ぐにかつての親友に向けた。

 かつての親友は、無言でそれを……いや、それを向けている者を見つめていた。ガラス玉のような瞳で。

「どうしてだッ? どうしてさやかを……柳ぃッ!」

 苦渋と共に吐き出された言葉に、幸人は唇を吊り上げるという動作で答えた。その動作だけで、幸人の印象が塗り替えられた。

 これまで俊平がみたこともないような、邪悪とすら感じられるものに。

 そして。

「約束」

 小さく唇を動かしただけの、平淡な口調だった。だがそれは、俊平が聞き慣れた幸人の声に間違いなかった。

「……約束……だと?」

「約束の刻が訪れた」

「やくそくのとき……? なんだそれはッ!」

「黛さやかは、〈鍵〉の一つだった」

「な、なにをいっているッ?」

「だから……約束さ」

「もういいッ! お前はさやかを殺した。それだけだ。だから俺は、お前を許すことはできないッ」

「それでいい。さぁ俊平……僕を殺せ。それで、僕の約束は全て果たされる」

 月に雲がかかり、淡い光りの世界を闇へと置換した。

 闇が去った後には、雪に半ば埋もれ、大の字に倒れた一人の男が照らし出されていた。

 もう一人の男の姿は、一瞬にしてかき消されでもしたかのように、その場にはなかった。

 

 『彼』と『彼女』との約束は、まだ果たされていない。

 月は白く、天空の闇に浮かんでいる。

 

 

     「黒い羽根の重さ」

 

 さぁ始まりだ! なにもかも、今、この瞬間が始まりさ!

 紫色の小鳥が希望を詠い、水面に立つ〈少女〉が〈少年〉をみる。

 残夢の後継者が大地を駈け、パーティの用意をしているウサギがピョンピョンと飛び跳ねる。

 泣いているひまなんかない。立ち止まっている余裕なんかない。

 妖精が始まりの鐘を鳴らしている。眠っていた若草が目を醒ます。

 虹がかかり、その根本に〈みつけるべきモノ〉を産む。

 さぁ始まりだ!

 さぁ、〈みつけるべきモノ〉を捜しにいこう!

 口笛吹いて、ちょっとだけ陽気にね。

 でも、忘れちゃダメだよ?

 これが、夢じゃないということを。

 キミが、キミであるということを。

 

 

     「終文」

 

 希望がときに残酷であることは嫌というほど理解しているけれど、でも希望にすがるしかない瞬間は連続して、ずっとどこまでも続いているかのようです。

 幸せになりたいとは思うけれど、その幸せがなんなのかはみえません。

 ……幸せになりたい。そう思えることが、自分が幸せな証拠なのでしょうか?

 そう思うことがあります。

 少なくとも、幸せになりたいと願う余裕が、自分にはあるのですから。

 広大な砂漠のどこかに一粒だけ虹色の砂があって、その砂を手に入れると幸せになれるのかもしれません。

 月を置き去りにするほど速く走れるのなら、太陽を凍らすほど強く想えるのなら。

 夢の世界に、沈めるのなら……。

 

 でも〈ここ〉は現実。夢の世界じゃない。

 そして自分は、夢の世界の住人にはなりたくない。

 暑い日射しを感じていたい。冷たい風を感じていたい。痛みを、苦しみを、そして幸福を。

 

 泣きたいほどあなたが好きです。

 この現実で、あなたを好きになることができた。

 だから自分は、それなりに幸せです。

 あなたは今、幸せですか?

 もしこのメッセージがあなたの目に触れることがあるのなら、そしてあなたが幸せであるのなら、少しだけ……少しだけでいいです。

 笑って、いただけますか?

 微笑んで、いただけますか?

「幸せだよ」

 と、呟いていただけます……か?

 

 紫色の小鳥のように。

 海面に姿を映す、中天の月のように……。

 


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