『未来』

 

 「Colse to you ...」

 

     ☆

 

 目を醒ますと、そこにあるのは愛おしい「夫」の顔。

「おはよう」

 優しい声で告げられる。

 熱くなる頬と心。

「おはよう……ございます」

 そして交わされる「おはようのキス」。なにげない、幸せな「夫婦」の光景。

 一つのベッドで、一枚のシーツにくるまり、裸の身体を抱きしめ合う。

 昨夜くたくたになるまで愛し合い、肌を重ね合ったのに、まるで初めて触れるかのように心地いい。

 カーテンを通り抜けて室内に差し込む陽光も、見慣れた彼の部屋の様相も、彼の肌の温もりも、なにもかもが新鮮に感じられる。

 幸福な日常。幸せすぎて、涙が零れそうだ。

 松岡晶子(まつおか あきこ)にとって、こんなありふれた日常ことそが「夢」だった。彼女はこんな幸福を、心から望んでいた。

 目覚める。一人じゃない。部屋は白い壁に覆われてはおらず、消毒液の臭いもない。

(あたしは自由なんだ)

 好きな時間に起きて、好きな時間に好きなものを食べ、好きな時に寝る。

 今はもう、ベッドに上半身を起こして窓の外を眺めていたという理由で、医師や看護婦に窘められることもない。味のしないお粥を食べなくてもいい。大好きなパイナップルジュースも思い切り飲める。

 これが自由。これが……幸せ。

 憧れだった学校。でもいい。行けなくてもいい。「夫」が側にいてくれるのだから、それで充分に幸せだ。

(こんな毎日が、ずっと続けばいいのに……)

 切望する。

 だが、それは叶えられない。許されていない。

 晶子は知っている。

 自分が、後半年も生きられないという事実を。

 だからこそ望んだ。今の幸福を。限りある幸福を。

 最初で最後のわがまま。

「死ぬまで、暦(れき)お兄ちゃんと一緒にいさせてください」

 五歳から十三歳までの八年。晶子の居場所は病院のベッドだった。楽しみといえば、従兄の暦がお見舞いに来てくれるということくらい。

 病院内の散歩も一日三十分と決められていたし、医師が許す物以外口にすることもできない生活。自分が生きているのか、それとも死んでいるのか、彼女にはわからなかった。

 そんな晶子が自分の最後を告げられたのは、彼女が十三歳になった日のこと。

 告げたのは、晶子の母だった。

「これで楽になれるわね」

 安心したような顔で母がいった。

「よかったね。お母さん」

 思ったが、口にはしなかった。

 晶子は、

「うん……そうだね」

 とだけ、呟いた。

 自分の死を喜ぶ母。信じられなかったが、晶子は諦めていた。

(お母さんになにをいってもムダ。お母さんはあたしがいなくなって、自分が楽になれることしか考えていない。あたしはお母さんにとって、お荷物でしかない。最後まで、お荷物でしかなかった)

 自分だって、健康な身体に生まれたかった。普通に学校に行って、普通にお友達と遊んで、普通の女の子になりたかった。

 本や映像、そして話でしか知らない学校生活。憧れだった。自分で教科書を読み、自分で勉強した。いつ学校に行っても、恥ずかしくないように。

 だがそれも、結局無駄になってしまった。晶子はもう、学校に通うことはない。そんな必要はなくなってしまった。

 決定された死。

 自分ではわからない。自分では、自分が死ななければならないほど重病だとは思えない。だが確実に、晶子に死は迫っている。

 だからこそ許されたわがまま。

 暦の部屋。いや、「二人の家」で挙げた、二人きりの結婚式。暦とは名字が同じだったため、晶子の名字は変わらなかったが、それでも晶子は新しい「松岡晶子」になった。

 おもちゃの指輪の交換。誓いの口づけ。

 大学生になったばかりの青年と、十三歳になったばかりの少女の結婚式。世間から認められなくとも、二人は「夫婦」になった。

 入ったばかりの大学を休学し、つねに晶子と共にあることを決断した暦。晶子を、「妻」にしてくれた暦。

(あたしは、暦お兄ちゃんにひどいことをしている。暦お兄ちゃんの未来を壊している)

 それは理解していた。だが晶子は、暦の「優しさ」に甘えた。示された幸福を、手放すことはできなかった。

(愛しています、暦お兄ちゃん。ううん、あなた……)

 二人きりの生活。優しい「夫」。

 限りある「幸福」。

 そして、「未来」。

 不安はある。死にたくない。ずっと、暦と生きていたい。ずっと暦に抱かれていたい、包まれていたい。

 ずっと、ずっと「幸福」でいたい……。

 叶えられない望み。約束された死、永遠の別れ。

 でも……だからこそ今を、「この時」を大切にしたい。「幸福」を感じていたい。

 限りある未来。迫り来る、「死」という「現実」。逃げられない。

 だからこそ二人は、「夫婦」という「カタチ」を手にしている。「それ」が「許されて」いる。

 認められてはいないだろう。だが、「許されて」はいる。

 年若い「夫婦」。

 一対の「カタチ」。

 限られた、「幸福」の時。

 やがて訪れる別れの瞬間まで、晶子は暦の「妻」であり続けたいと思っている。あり続けようと誓っている。

(あたしは、この人の妻となるために生まれてきた)

 だから晶子にとって、この限られた時間だけが「生きている」ということと同義であり、やっと手に入れることができた「彼女自身」でもある。

(最後は笑って逝けるように、最後は「ありがとう」っていえるように、いっぱい、いっぱい幸せをください。あたしに、あなたを幸せにさせてください)

 過去から降り積もり続ける「トキ」の中。

 晶子は、「未来」へと「生きて」いる。



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