『終幕』
潮風が心地よい香りと共に凪がれ、岸壁に立つ少年の首筋で縛った長い髪を揺らす。少年の視線を真っ直ぐにたどると、白い海鳥の群が乱舞しているのが見えた。 少年の上には、白い雲が浮かぶ青い空。そして少年の眼下には、どこまでも続くかのような海原が広がっている。 「フーマお兄ちゃんっ。ちょっときてえぇ」 少年。フーマは六歳年下の義妹の声に、右斜め下の砂浜に視線を向けた。 「どうしたッ。ミユリ」 「いいからぁ、速く降りてきてよぉ」 フーマは、二十メートルはあるであろう急勾配な崖を滑り降り、義妹のミユリのもとへと砂浜を走った。 「速く、はやくぅ」 浜辺を自分に向かって走る義兄に、ミユリが足踏みしながら腕招きを繰り返す。 「で、なんだ」 義妹が足踏みを繰り返す場所にたどり着いたフーマは、彼女を見下ろして問う。「いつみても小さい頭だな」と思ったが、それは口にしなかった。 「そ、それが大変なんだよ」 ミユリは足踏みを止めることなく、通常でも大きな瞳をさらに大きく見開いて告げる。普段は大人しいミユリがこれほどまでに慌てているのだから、どうやら本当に大変なことらしい。フーマの脳裏に、義母のショーコの顔が浮かんだ。 「義母さんになにかあったのかッ!?」 「違うよっ。あ、あのね、女の子がいるの」 それのどこが大変なんだ? と思うと同時にフーマは、ショーコの体調が悪化したのではないということに安心した。 「……それりゃいるだろう。お前だって女の子じゃないか」 「もうっ! いいからきてよっ」 ミユリがフーマの手を引っ張り、駆け出す。フーマはされるがままに従った。
「この中だよ」 フーマが連れてこられたのは、入り江の洞窟だった。ここは、集落に住む子供たちの遊び場だ。フーマも数年前までは、幼なじみのショウやホズミと、よくこの洞窟で遊んだものだった。 ミユリはその影が染める洞窟の内部を指さして、緊張した表情をまだ十歳という年齢を考えても幼い顔に宿し、フーマの右腕にギュッとしがみつく。 フーマは義妹の普段とは違う様子をいぶかしみながらも、洞窟の奥へと脚を進めた。 ひんやりとした空気が、二人の兄妹を包み込む。 とフーマは、最深部の岩肌が露出した場所に、半分海水に浸かるようして寝ている…というよりも挟まっている人影を見つけた。 「あれか?」 「う、うん」 そっと人影に近づく二人。 薄暗い(とはいっても、行動が制限されるほどではないが)洞窟内部。人影の近くで、不意になにかが輝いた。 (なんだ?) 輝きの正体を確認し、フーマが息をのむ。 「ねっ、女の子でしょ?」 確かに女の子だった。ミユリよりは年上だろうが、フーマよりは年下だと思われる。 (なぜ、こんな場所に女の子がいるんだ? 気を失っているみたいだけど……そ、それにしても、なんだこの髪の色はッ!?) 女の子の長い髪は、海水に浸かり揺らいでいる部分も含め、フーマがこれまでに見たこともない色をしていた。 「フーマお兄ちゃん。この子、人魚かなぁ……?」 ぎゅとフーマの腕を掴み、ミユリは少し震えた声でいった。 「バカな。人魚なんているはずないだろッ?」 「で、でもぉ。変だよ、この子の髪……」 確かにミユリがいう通り、女の子の髪は普通ではなかった。 〈テゥルースセンター〉から遠く離れた孤島に住んでいるフーマでも、〈ガイア〉には様々な髪の色を持つ人間がいることは知っている。フーマの髪の色は漆黒だが、ミユリは赤に近い茶色だ。 その他にもフーマは会ったことはないが、金、銀、といった、彼には明確に想像ができないような髪の色を持つ者も存在していると、彼は知識として知っている。 だが、その女の子の髪は……。 「虹色の髪なんて、ぜったい変だよぉ」 虹色の髪。そのミユリの表現が適切かどうかは、フーマにはわからなった。 フーマに理解できたのは、女の子の髪が様々に色を変えながら、自ら光輝いているというそのままの事実だけだった。
☆
かつてこの孤島の周辺には、〈キューシュー〉と呼ばれていた大地が広がっていたという。そして北東の七つの島からなる〈ジプス地区〉は〈ホンシュウ〉と呼ばれる大地で、〈キューシュー〉と〈ホンシュウ〉は橋と地下道で繋がっていたらしい。 だがそれは「ムーンクライシス」以前の、今から百年以上も前のことで、もはや伝説といってしまっていい昔の話だ。 「ただいま」 太陽が真上に昇るころ、海での漁を終えてフーマ・シングウは自宅に戻った。今日の成果はまずまずだった。少なくとも、家族四人分の食料にはこと足りるだろう。 「あっ、おかえりなさい。フーマお兄ちゃん」 家の掃除をしていた義妹のミユリが、微笑みを向けてフーマを迎えた。 ミユリはフーマより六歳年下で、現在十歳だ。年齢よりも幼く見えるがしっかりとした少女で、家のことは大抵こなすことができる。ミユリが作る料理は、家族の他の誰が作るものよりも美味しいと、フーマは思っている。 「……コハクは?」 テーブルの上に数匹の魚と貝類が入った籠を置き、フーマがミユリに問う。 「なによお兄ちゃん。帰ってくるなりコハクお姉ちゃんのこと?」 渋面となるフーマ。ミユリは「くすくす」と笑った。 「コハクお姉ちゃんなら、ホズミお姉ちゃんと洗濯しにいってるよ。ざんねんでした」 からかいを含んだミユリの言葉に、 「べ、別にそんなんじゃない。ちょっと気になっただけだ」 フーマは日に焼けた頬に赤みを帯びさせ反論した。 「ふ〜ん。説得力ないね。ま、そういうことにしておいてあげる」 「うるさいな。そんなんじゃないっていっただろ」 笑いを噛み殺し、ミユリは続けた。 「ねぇ、お兄ちゃん。コハクお姉ちゃんが家にきて、もう一ヶ月だね」 「うん? あぁ、そうだな」 「実はあたしね、最初、コハクお姉ちゃんのこと、ちょっとこわかったんだ。ほら、洞窟で見つけたとき、髪の毛虹色だったし……あれ、なんだったんだろうね? コハクお姉ちゃんは、島に来るまでのことなにも憶えてないみたいだし、髪の毛も、すぐに金色になっちゃってそのままだし……」 「……」 確かに、コハクの正体は不明だ。彼女は記憶をなくしていて、コハクという名前も仮のものだ。 フーマも、当初はコハクに対して警戒心を持っていた。 だが、今は違う。コハクは素直で明るく、なにごとにも一生懸命。記憶をなくしているということ以外、ごく普通の女の子だ。 「でもね、今はへーきだよ? あたし、コハクお姉ちゃんのこと大好き。お兄ちゃんと同じだね。やっぱりお兄ちゃん、成人の儀式が終わったら、コハクお姉ちゃんにプロポーズするの? それとも、ホズミお姉ちゃん? あたしはどっちでもいいよ? あたし、コハクお姉ちゃんも、ホズミお姉ちゃんも大好きだから」 勝手にフーマの「未来の妻」を予想するミユリ。それを無視して、フーマは義母の部屋に向かった。
〈ガイア〉では辺境といってもいいだろうこの島では、全ての家が木造だ。 フーマたち家族が住む家は、今は亡き彼の実父が十歳のときに建てられたらしいので、もう築三十ほどになる。だがしっかりと造られているのか、古びた様子はない。 「義母さん。ただいま帰りました」 フーマの義母、ショーコの部屋は、この家で一番日当たりがいい部屋が割り当てられている。 フーマが部屋の扉を開けると、ショーコはいつものようにベッドの上で上半身を起こし、窓の外を眺めていた。 が、すぐに義理の息子に目を向け、そっと優しい顔で頬笑を送った。 「お帰りなさい、フーマさん。ご苦労さまでした」 フーマはなにかいおとして口ごもり、数瞬の時差を置いて「はい」とだけ答えた。 「身体の具合はどうですか? なにか変わりはありませんか?」 問いながらフーマは扉を閉め、ベッドのショーコに近づく。 「くすっ……フーマさん、漁に出る前にも、同じことを訊きましたわよ?」 義母の優しい声。フーマの胸の奥に、なんともいえない温かさが満ちる。 「何度だって訊きます。大切な義母さんのことですから」 大切な義母さん。フーマは恥ずかしげもなくいい切った。それは事実だから、フーマはなにも恥ずかしくない。 四年前実父が再婚し、義母となったショーコ。 〈ジプス地区〉出身の彼女は、その人当たりのいい性格から問題なく島民に受け入れられたが、生来身体が弱く、二年前に漁の最中の事故で夫が亡くなってからは、ベッドから離れられなくなってしまった。 「……ごめんなさいね、フーマさん。私の身体が弱いばかりに、あなたにもミユリにも、それにコハクさんにも、苦労ばかりかけてしまいますわね。本当に……ごめんなさい」 「か、義母さんッ!」 フーマはつい声を荒げてしまった。義母の、申し訳なさそうな言葉と表情。耐えられなかった。 義母とはいえ、物心が付く前に実母を亡くしたフーマにとって、ショーコは間違いなく「母」である。 父の再婚。新しい「母」と「妹」。新しい「家族」。フーマが得た、「宝物」。 父が死んだ今でも、「それ」になんら変わりはない。いや、父が生きていた頃以上に、大切になっている。 自分が守るべき家族。 (義母さんに肩身の狭い思いをさせているのは、俺がまだ子供だからだ) 孤島では十七歳になると大人として扱われ、結婚することも、酒を呑むことも許されるようになる。 (けど、それも後少し……) フーマも、後十日で十七歳。後十日で、大人の仲間入りだ。 (大人になれば、なにかが変わる) 大人の仲間入りをしたからといって、すぐにフーマの「なにか」が変わるとは思えないが、やはり「大人」という「称号」は、未だ「子供」のフーマにとっては憧れだった。 (大人になれば、義母さんだって俺を認めてくれる。俺に頼ってくれる) ショーコを、ミユリを、そして新しい家族コハクを、彼が守っていくのだ。 守るべき家族。なによりも大切な家族。 なくしたくない。手放したくない。今の幸せを。 ショーコの身体は心配だ。だが、きっとよくなる。ならないはずがない。 「少し……外に出てきます」 いい残して、フーマは部屋を後にした。 コハクの顔が見たい。フーマは、なんとなくそう思った。
この八時間五十三分後。孤島は、ガイア軍の攻撃によって壊滅する。 フーマ・シングウ。彼、一人を、その地に残して……。
統一ガイア暦0089、初夏。 最初へ至るための最後の物語は、すでに始まっている。 |