光の雨を抜けると、コハクは漆黒の闇に包まれていた。

『よく、〈ここ〉までたどり着けたわね』

 それは音ではなく、感覚として身体の中に直接聞こえてきた。

「……あなたが、創造主ですか?」

『そうよ』

 コハクは辺りを見回した。が、闇以外のなにも認識できなかった。マーカスの姿も見当たらない。

 マーカス・グラゼ・マクスウェル。

 孤島を焼き払い、ショーコを、ミユリを、ホズミを殺し、そして……彼女の目の前でフーマまでをも殺した、憎むべき男。

「彼は……マーカスはどうなったのです?」

『彼には、〈ここ〉に至る力がなかった。それだけのこと』

「……死んだのですか?」

『消去され……いえ、そうね、消滅した……といえばいいのかしら』

「そうですか……」

『それで、四番目にして最初のマリア。あなたはなにを私に望むのかしら?』

「望み? いいえ。あたしはただ、あなたと話しをしにきただけです」

『それは、私に希望を伝えにきたのではなくて?』

「……そう……かもしれません。なにも、考えていませんでしたから」

『まぁいいわ。それで、なにを話したいの?』

「そうですね……まず、あなたは神なのですか?」

『そうね。神……ではないわ。だけど、あなたたちの〈世界〉と、あなたたちを創った存在ではあるわね』

「それは、神ではないのですか?」

『違うわ』

「……よくわかりません。けど、わかりました。あなたがどのような存在であれ、あたしたちには関係のないことなのですね」

『その通りよ』

「ではなぜ、あたしたちの〈世界〉を創ったのですか?」

『データ収集のため』

「データ……ですか。どうやらこれも、あたしたちには関係のないことのようですね」

『直接には……ね』

「……あたしは……あたしたちは、あなたの玩具なのですか? あなたは自分の創った〈世界〉で遊んでいるのですか?」

『いったでしょ? 私はデータを収集しているだけ。〈仮想世界〉を創り、その『プログラム』がどう動くのか観ていただけよ。あなたのような個体が〈ここ〉に来るのを、ただ待っていただけ』

「……」

『そして、あなたが〈ここ〉に現れた。だからこうして話しをしているのよ。四番目にして最初のマリア』

「……あなたのいうことは、わからないことばかりです」

『理解する必要のないことだから……かもしれないわ』

「でしょうね。そう思います。あたしには、あなたが理解できません」

『本当のところ、私にもあなたを理解することはできないわ。私にとって価値の、意味のあることは、あたなが〈ここ〉にたどり着けたという事実だけ。それが、私の望んでいたことだから』

「あなたの望みは叶えられた……と?」

『そう。私が、あなたたちの〈世界〉に託した望みは叶ったわ』

「だから、望みですか……? 今度はあなたが、あたしの、あたしたちの望みを叶えてくれるのですか?」

『あなたたちの望みは叶えられない。私が叶えられるのは、あなたの望みだけよ』

「あたしの…望み?」

『そうよ。あなたはなにを望むのかしら?』

「……」

『……』

「……あ、あたしは……」

『……』

「あたしの望みは……」

『……』

「大好きな人と……大好きな人たちと……」

『……』

「ずっと……ううん、限りある時でいいから……幸せに、なりたい。頬笑み合って、生きていきたい……」

『……それが、あなたの望み?』

「それが、あたしの望み……です」

『わかったわ。四番目にして最初のマリア……いいえ、マリア』

「違います」

『……なにがかしら?』

「あたしの名は、もうマリアではありません。その名は、その名で呼ばれていたあたしは死にました。フーマさんと出会ったときに」

『……』

「あたしが、ショーコさんからもらった名前は……」

『……』

「あたしの、あたしの名前は……」

 

     『序幕』

 

「お兄ちゃん! おっきってッ」

 バフッ!

 自室のベッドで朝の微睡みを楽しんでいた新宮風眞(しんぐう ふうま)は、義妹の美優理(みゆり)の体重を腹部に痛感した。というかさせられた。

「グッ……! な、なにしやがるッ」

 風眞は腹の上に座る美優理を睨みつける。が美優理は、「あっ、起きた?」と涼しい顔だ。

「早くしないと、朝ご飯食べられないよ?」

「……ゲッ、今何時だッ?」

「保澄お姉ちゃんが迎えにくるまで、あと十分もないよ」

 ということは……。

「ち、遅刻じゃねーかッ。なんで、もっと早く起こさないんだッ!」

「起こしたよぉ。あたしもお母さんも。でもお兄ちゃん……きゃっ」

 腹上の美優理をはね除け、風眞がベッドから飛び降りる。

「クソッ。お前、後でこめかみギリギリの刑だッ」

「な、なんでそうなるのよっ!?」

「るせぇッ。ほら、着替えるから出てけよ。そうか、見たいのかッ!? オレの美しい身体をッ」

「そ、そんなの見たくないよっ。気持ち悪いなぁ」

 美優理が呆れながら部屋から出ていく。風眞は慌てて制服に着替え、洗面所で適当に顔を洗い髪を整えると、義母の翔子(しょうこ)が用意してくれているであろう朝食を採るために、ダイニングに向かった。

「おはようございます。義母さん」

「あら? おはようございます、風眞さん。今日はゆっくりしすぎましたね。美優理はもう、学校に行きましたよ。朝ご飯食べる時間ありますか?」

「食べますよ。時間がなくても」

「まぁ、嬉しいわ」

 翔子が本当に嬉しそうに頬笑む。風眞は、「なぜこんなに優しくてキレイな人が、ウチのヘボ親父なんかと再婚したんだ?」と、初めて実父の再婚相手として翔子を紹介された日からこの四年ほどの間、何度も繰り返した疑問を脳裏に浮かべた。

 と、そのとき。

 ピンポーン

「あっ、お迎えのようですよ。風眞さん」

 風眞は朝食を胃に流し込む。

「ご……フゴッ! げっ、ゲホッ」

 ウケを狙ったのか、少し咽せたりもしながら。

 風眞が咽せたり咽せなかったりしながら、楽しく朝食を採っていると、

「あの……風眞くん、起きてますか?」

 幼なじみの黛保澄(まゆずみ ほずみ)が、新宮家のダイニングに顔を見せた。

「ボウッ」

 風眞が保澄になにかをいったが、なにをいったのかは風眞にしかわからなかった。

「ごめんなさいね、保澄ちゃん。風眞さん、今日はちょっとだけお寝坊さんだったのよ」

「今日は……? ま、まぁいつものことですから、気にしてません。寝てなかっただけましですから」

 と、女性陣が会話していると、

「ご、ごちそうさまでしたッ」

 慌ただしく朝食を終えた風眞が、椅子を鳴らして立ち上がった。

「行くぞ保澄ッ」

「あっ、風眞くん。鞄は?」

 風眞は鞄を自室に置いたままだった。

「……ウケたか?」

「なんのこと? いらないの? 鞄」

「いるに決まってんじゃねーか」

「なら、持ってきたら?」

 風眞は急いで自室に戻ると、鞄を手にとって部屋を出る。玄関で保澄が靴を履いているのが見に入った。

 風眞がダイニングの側を通り過ぎようとしたとき、

「風眞さん。お弁当忘れていませんか?」

 風眞はピタッと停止した。

「はい。どうぞ」

 翔子が弁当箱の包みを手渡す。風眞はそれを受け取り、通学鞄に詰め込んだ。教科書は学校のロッカーに隠してある(持って帰らないのは違反だからだ)ので、鞄の中はスカスカで筆記用具くらいしか入っていない。当然弁当箱は容易に収納された。

「じゃ、いってきますッ。義母さん」

 いい残し玄関に向かう風眞。義母に対しては律儀な男である。

「はい。いってらっしゃい」

 翔子の言葉を背中に聴き、風眞は保澄と共に家を出る。瞬間。初夏の朝の陽光が、優しく二人に降り注いだ。

 

「保澄。お前さ、もっと早く迎えにこいよッ」

「な、なに、い、いってる、るの?」

 駆け足の二人。といっても運動神経がブチ切れている保澄には、全力疾走に近い速度だ。そのため保澄の返答は、途切れとぎれになっている。

「ふ、風眞くんが、キ、ギリギリま、まで、ね、寝てたいって、いう、いうから……はぁはぁ……わ、私だって、いつも……はぁ、ち、遅刻……はぁはぁ」

 確かに、保澄が迎えにくる時刻を決めたのは風眞だ。保澄が迎えにきたとき、風眞がすぐに登校できる状態でないとヤバイ時刻……というのが、彼が保澄に迎えにくるようにと設定した時刻だった。

 なぜそんな綱渡り的な設定を風眞がしたかというと、保澄がいったように風眞がギリギリまで寝ていたいからだ。

 そしてなぜ、保澄がそんなアブナイ決めごとを律儀に守っているかというと、これにはいろいろと複雑な「オトメゴコロ」というものが絡んでくるので、それは察していただきたい。

「なんだ。オレが悪いっていうのかッ!?」

「そ、その、その通り……はぁ、じゃ、じゃないっ」

「ムッ……保澄のくせに生意気なッ。弁当没収の刑だ」

「い、いいよ……だ、だって、はぁはぁ……私、今日、お、お弁当じゃない、もん」

「じゃ、刑の執行は明日だ」

「そ、それは、ダ、ダメっ」

 ラブコメマンガのような二人の登校風景。これが風眞の親友である翔(しょう)がいうところの、「新宮夫婦のらぶらぶ登校」である。そうからかわれると、風眞は「ケッ」と吐き捨てるだけだが、保澄は顔を真っ赤にして「ちが、ちが、違うよぉっ!」と必至になって否定し、その度にドツボにはまっている。

 と、このようにして二人は、学校までの一キロほどの道のりを楽しみ(特に保澄は。理由は察していただくとして)ながら登校した。

 

「遅ぇーぞ保澄ッ」

「ま、まってよぉ」

 なんとか校門はクリアしたが、校門クリアと同時に予鈴が鳴ってしまい、二人は遅刻ギリギリ状態だ。

 下駄箱に靴を突っ込み、風眞はまだ靴を脱いでいる保澄をそのままに教室に向かう。

 風眞たちが通う高校では、二年生のクラスは三階にある。風眞は二年C組で、保澄は二年A組である。

 ちなみにA組は成績のよい生徒が集められた特別クラスで、保澄は運動神経がブチ切れている分(なのか?)、成績は学年で十番から落ちたことがない。風眞も意外とは思えるが、学年で上の下辺りをキープしている。

 風眞が階段を上ろうと角を曲がった瞬間。

 どんっ!

「きゃあっ」

 小柄な女生徒とぶつかってしまった。風眞は転んでいないが、女生徒は抱えていたプリントを廊下に散乱させて転んだ。

「ワ、ワリィ。大丈夫かッ?」

 風眞が女生徒の傍らにしゃがみ込み、問う。

「……は、はい」

 風眞と女生徒の視線が重なった。

(……こいつ、どこかで……)

 デジャヴー。風眞は女生徒に面識があるように感じた。が、どこで会ったのか思い出せない。

(でも……どこかで、絶対に会ってる。オレは、こいつを知ってる)

 女生徒も固まったまま、視線を逸らそうともせずに風眞を見つめていた。

 懐かしい。風眞は思って……いや、感じていた。

「あっ、風眞くん。なにやってるのよっ」

 後方上段からの保澄の声に、風眞はハッと我に返った。

「あ……い、いや、ちょっとぶつかっちまって」

 風眞はいいながら、廊下に散らばっているプリントをかき集めて女生徒に渡した。女生徒の上履きに入ったラインが青だったので、風眞は彼女が一年生であることを悟った。この学校では上履きに入ったラインの色で、学年の区別が容易につくようになっている。

「あ、ありがとう……ございます」

 女生徒が礼をいう。

「いいのよ。風眞くんが悪いんだから」

 応えたのは風眞ではなく保澄だった。

「お前、ぶつかったとこ見てなかったじゃねーかっ」

「見てなくてもわかるの。風眞くんが悪い。違う?」

「いや、そりゃそうだけど」

「やっぱりそうなんじゃない」

 とここで、ショートホームルームの開始を告げる本鈴が鳴った。

「あっ、ど、どうしようっ」

 慌てる保澄。保澄のクラスの担任は、時間に厳しい教師だ。保澄の遅刻が決定した。が、風眞にはまだ余裕がある。階段を駆け登れば間に合わないこともない……かもしれない。

「三度目だ。バツ掃除おめでとう、保澄。じゃ、オレは急ぐから」

 風眞は階段に脚をかけ、止まった。そして立ち上がった女生徒を見て、

「わるかったな。お前も急いだらなんとかなるかもしれないぞ。そこのカワウソに似たお姉ちゃんは遅刻だけどな」

「か、かわうそって……」

 別にカワウソには似ていないが、そういわれた「お姉ちゃん」は複雑な顔で呟いた。

「あ、あのっ」

 いい残して去ろうとする風眞を、女生徒が呼び止めた。

「告白なら放課後だ。校則で決まってるだろ?」

「ち、違いますっ。こ、これ、落としました」

 と、女生徒が生徒手帳を風眞に差し出す。風眞はその生徒手帳を受け取り、「サンキュ」といい残して今度は本当に階段を駆け登っていった。

「あっ! ふ、風眞くんずるいよっ」

 保澄も後を追おうとしたが、女生徒が立ち止まっているのが気になって、

「あなたも、早く教室にいったほうがいいよ」

「あ、その……あたしは、職員室にこれを……だから、大丈夫です」

 抱えているプリントの束をそっと持ち上げ、女生徒はいった。どうやら彼女は、教師から用を言付かっているようだ。

「……そ、そうなんだ(もしかして、遅刻は私だけ?)。あっ、本当ごめんなさいね。あの人、ちょっと……っていうか、かなりそそっかしくて。あとで叱っておくから」

「い、いえ、いいんです。あたしもぼんやりしてましたから。それよりも……いいんですか? 遅刻してしまいますけど……」

「いいの……もう、遅刻してるから」

 沈んだ声の保澄。女生徒は気の毒そうな口調で、「そ、そうですか」と答えた。

 

 風眞が教室に滑り込み席に座ると同時に、担任の教師が教室に入ってきた。

「危なかったな。新宮」

 教師が残念そうに告げる。

「日頃の行いがいいからな。誰かさんとは違うさ」

「誰かさんって誰のことだ? 先生のことか」

「違うって、黛さんチの保澄ちゃんのことさ。かわいそうにあの子、遅刻三回の掃除当番一ヶ月がついさっき決定したばかりなんだ」

「……それは、お前のせいじゃないのか? 黛はお前というお荷物がなければ、遅刻なんてするような生徒じゃないぞ」

「ははっ。せんせぇは冗談が上手いなぁ。ボク感心しちゃうよぉ」

 態とらしくいう風眞。

「……まぁいい。それじゃあ、出席を取る。赤間」

 教師が出席を取り始めた。風眞は、手に持っていた生徒手帳をなに気なくズボンに突っ込もうとして、ふと気がついた。

(あれ? オレの生徒手帳、鞄の中のはずじゃ……)

 生徒手帳を開いてみる。

『一年A組 碧島こはく(あおしま こはく)』

 その文字の上に写真が貼られていて、そこには緊張した面もちのあの女生徒が写っていた。

(あいつ、自分がこれ落としたのに、オレが落としたって勘違いしたな? そそかっしいヤツめ)

 保澄が聞いたら、「風眞くんには、他の人のことそそかっしいなんていう資格ないよぉ」というのが目に見えるようなセリフだ。

(でも……こはく、コハク。やっぱり、オレは……)

「……ぐう。新宮っ。いないのか? じゃ、遅刻だな」

「あっ! は、はいッ。いるのわかってるくせに、イジワルなこというなよな。女の子にもてないぜ、先生」

「先生は結婚しているから、女の子にもてる必要はない。次、鈴本」

 風眞をあっさりと流し、担任は出席を続けた。

(まぁいいや……同じ学校なんだから、どこかですれ違っていても不思議じゃない。それで知ってるとか感じてるんだろう。これ、休み時間にでも返しに行くか……)

 風眞は女生徒……碧島こはくの生徒手帳をズボンのポケットに押し込み、なに気なく窓の外を眺めた。

 六月下旬、初夏のすんだ青空が広がり、その空を彩るように白い鳥の群が舞っていた。

(……鳥だ)

 白い鳥。

 海鳥だ、懐かしいな。風眞は思った。

(海鳥……?)

 瞬きをする。海鳥の群は消えていた。

(見間違いか? 疲れてんのかな……っていうか、なんで海鳥が懐かしいんだ?)

 風眞は一つ欠伸をして、机の上に上半身を突っ伏した。

『また逢えましたね。フーマさん』

 女の子の『声』が聞こえたような気がした。

『そうだな、また逢えた。やっと……逢えた』

 風眞の心の奥で、『誰か』がそう告げていた。

 

 正暦一九九四年、初夏。

 物語は、〈ここ〉から始まる。



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