序章
ハッセル王国はラーゼンディア大陸の西部にあり、九つの領地からなっている。
王国九領地の最北にはセルン領が位置し、現セルン領主シーエント伯アリクローダが住まうセルン城は、四方を山々に囲まれる人里はなれた場所にあった。
セルン城といえば、かつては北の国境を接していたリシリア帝国の動向を監視する拠点として重要視されていたが、リシリア帝国がセンハ皇国に吸収されて事実上滅亡した現在、ハッセル王国とセンハ皇国とは友好関係にあるため、その価値は軽視されている。
そもそもセルン領は領地の大半が山林であり、ハッセル九領地の中でも一番人口が少なく、一年の半分にもおよぶ長い冬の間、領地の大半は雪によって白くそめられてしまうため、農作物の収穫率は低く家畜を飼育するのにも適していない。
そのうえ、農耕にかわる特別な産業があるわけでもなく、価値のある鉱物が産出するわけでもないのだから、現在のセルン領は、ハッセル王国にとって重きを置く必要がある領地ではなかった。
しかし重要といえない領地とはいえ、シーエント伯アリクローダがセルン領主に任じられたのは、いまから一年ほど前のことで、そのとき彼はまだ十九歳という若さだった。
若輩者のアリクローダが一領主に任じられたのには、もちろん理由がある。
公には、前シーエント伯であるアリクローダの父親が突然の病で没し、アリクローダが建国の三伯爵家のひとつに数えられるシーエント伯爵家の当主となった祝いとして国王が任じたことになっている。が、三伯爵家の筆頭であるマーダナル伯爵家、その当主であるマーダナル伯アリミューナが自家の権力を強化するため、血統がアリクローダひとりとなり弱体化したシーエント伯爵家を国の中央から遠ざけるように図った……という、裏の理由が。
とはいえアリクローダ自身は、そういった裏の理由を察してはいなかった。彼は権力というものに関心がなく、自家をより高い位置へと登らせようとする意欲もない。
実はアリクローダは、父が没したとき、伯爵の地位を従兄であるキレバント子爵ダウンに譲り、国を離れようと考えていた。
そして自由戦士となって、世界中を自由きままに旅してみたいと。
シーエント伯爵家は武門の家であり、アリクローダも幼いころから剣には親しんできた。その腕は王国九将軍にも匹敵するといわれ、事実、王国軍部の長である大将軍カルダスが、「シーエント伯爵子息は、私の次とはいわないが、その次の大将軍にはなれる器です」と、王に進言したほどだ。
しかしアリクローダは、セルン領主に任じられたことで、身軽になり国を離れることができなくなってしまった。
一伯爵から領主へ。
これは出世であり、なおかつ国王直々の命であるため、拒否することは不敬にあたる。
こうしてアリクローダは、セルン領主として、セルン城の主となったのだった。
☆
昨日までとはうってかわり、今日は暖かな陽光がセルン城に降りそそいでいる。
ソフィアは中庭に洗濯物をほしおえると、降りそそぐ陽光を浴びながら、う〜ん……と声をだして伸びをした。
頬をなでる風が、昨日のものよりも少し暖かく感じられる。それはもうすぐ、この地に短い夏がやってくることをしらせていた。
そして夏を感じる季節の到来は、ソフィアがこのセルン城で暮らし始めてから、一年という時間が経過しようということも示している。
青い空へと視線をむけるソフィア。降り注ぐ陽光がまぶしくて、目を細める。
空の蒼海を泳ぐ、真っ白な雲たち。そのうちのひとつは、本当に魚の形をしているかのようにみえた。
「うん」
ソフィアはからとなった洗濯かごを手にすると、次の仕事にとりかかろうと気合をいれて勢いよく振り返る。その動作につられ、背中を完全に隠すほどに伸ばされた薄紅色の髪が、重力を感じさせない動きで舞った。
と、
「洗濯か。そのようなこと、わしにいえば一瞬でしまつしてやろうものを」
ソフィアの目の前に、ひとりの少女が立っていた。
「あっ、マリーナさん」
少女の名は、マリーナ・キラス。
肩の上辺りで水平に揃えられた緑の髪。猫のそれのようにつぶらで大きな瞳は、左が金、右が深い緑と、左右で色が異なっている。
マリーナは、城主アリクローダが客人として遇している、大がつくほどの魔法使いである。
本来ならこのようなところで埋もれている人材ではないのだが、なにが気にいったのか、この城にいついていた。
年齢は不詳。というより、本人もよく憶えていないらしい。
強大な魔力保持者は、普通の人間とは肉体的な差異が生じることがあり、常識外れの長寿をほこるという場合もある。
有名なところでいうと、「七賢者」の筆頭とされている白の神使シャリは、五百年以上前の「翼神戦乱」で英雄的な働きをしたことが歴史書に記されていて、そして彼は、いまなお「その頃の姿のまま」生存しているという事実がある。
マリーナも外見では十四、五歳といったところだろうが、自称では二百歳を超えているということだ。
ソフィアは笑みに少し困ったような色をにじませ、
「いいんです。マリーナさんにばかり頼っていると、自分ではなにもできなくなってしまいそうで……」
言葉を返した。
たしかにマリーナの魔法があれば、ソフィアが洗濯などをする必要はない。
しかしそれでは、自分の存在意義が薄れてしまう。いまは雪に閉ざされた季節ではなく、洗濯くらいは自分でできるし、したいとも思う。
無表情でソフィアをみつめるマリーナ。とはいえマリーナは、普段から感情を面にだすことは少ないのだが。
「ご、ごめんなさい、マリーナさん。でも」
マリーナはソフィアの言葉を切るように、「そのようなところは、好ましく思う」と告げると、掻き消えるように姿をくらませてしまった。
「……ふぅ」
思わず、ため息が零れる。ソフィアは、マリーナのことを嫌ってはいない。いや、マリーナの存在に感謝しているし、仲間だとも感じている。
だが、少し苦手に感じているところがあるのも事実だった。
現在この城で生活をしているのは、城主のアリクローダとソフィア、それにマリーナをも含めて、八人である。
三人のほかには、ソフィアと同じく女仕のサシャ。
南の大陸の血が混ざっているのか、腰元にとどくほどに伸ばされた髪は軽くなみうち、黒にもみえる濃い色をしている。年齢は二十一歳と、ソフィアよりも四つ年上だ。
サシャはいつでも優しい笑みをたやすことがなく、ソフィアにとっては頼りになる同僚であるとともに、優しいお姉さん的な存在でもある。
同じく女仕のルル。
髪は薄紫色で、短く整えている。三年ほど前にサシャに保護され、そのときには記憶をなくしていたということだ。
そういったことから、本名や年齢は不詳。外見的には十歳〜十二歳くらいだろうと思われるが、サシャによるとルルの姿はサシャが出会ったころと同じで、まるで成長しているようには思えないらしい。
マリーナがいうところ、ルルは人間と精霊種族との混血であり、人間とは成長の速度が違うのだとか。
精霊種族はかつて人間とも交流があったといわれているが、いまでは人間の世界に姿を現すことはごく稀である。
なかば伝説上の存在となっている精霊種族と、人間との混血種であるルル。
とはいえソフィアにとって、ルルは人間の少女となんらかわることなく、かわいい妹のような存在だ。
女仕以外では、アリクの護衛として国から派遣されている、聖騎士のナホカ・ミュー・リシテンナル。
年齢はソフィアと同じ十七歳ということだが、実年齢よりも上にみえる(ソフィアは実年齢よりも幼くみえるので、ふたりが同い年だといわれても納得できないかもしれない)。腰元で水平に切りそろえられた髪は珍しい銀色で、瞳は濃い紫色。リシテンナル男爵家の四女であり、貴族である。
マリーナと同じく、客人のユナタ。
黒い瞳に、太ももにまで届く長い黒髪。年齢は十四歳。物語に詠われる姫君のような、儚げで美しい少女である。事実、二年前に滅んだ、南の大陸にあった小国のお姫さまだったということだ。
彼女は三ヶ月ほど前にマリーナが連れてきて、それ以降客人として遇されている。
ユナタの従者、ヨル。
年齢は十六歳。なにもしなければ肩に届くであろう栗色の髪は、たいていが後方で編むようにしてまとめてられていて、髪の色をそのまま濃くしたような色の瞳が、小作りな面の上で躍動的にかがやいている。
ヨルはつねにユナタのそばにあり、社交的でひとあたりのよい印章をもたせるが、用がない限り自分から城の住民に話しかけてくることはない。ソフィアには彼女が、自分たちに心を許しているようには思えなかった。
以上、彼、彼女たち計八人が、現在このセルン城に暮らしている。
(サシャさんが食事の準備をしているはずだから、お手伝いにいこう)
思い、歩を進めるソフィア。と、彼女の腹部がジクっと痛んだ。
ソフィアは痛んだところに手をそえ、頬をうっすらと赤くする。そして、どこか照れたような笑みをうかべ、「くすっ」と声を零した。
笑顔のまま、ふたたびソフィアが一歩をふみだすと、
「忘れていた。みやげだ」
大きな紙袋を抱えたマリーナが、目の前に現れた。
突然出たり消えたりするマリーナの行動に、最初のころはソフィアも驚いていたが、いまでは当たり前に感じている。
「頼まれていた調味料だ。それと、異世界の衣類や食料を適当にもってきた」
マリーナは「異世界」なる、この世界とは違う「世界」に行き来することができるらしい。こうして、普通ならソフィアが目にすることなく一生を終えるだろう異世界の珍しい品々を、「みやげ」のひとことで与えてくれることも少なくない。
「ありがとうございます」
ソフィアが紙袋を受け取るため洗濯かごを下に置いて手を伸ばすと、紙袋が消えてしまう。
「お前の部屋に送っておいた」
ならどうして渡そうとしたのだろう。ソフィアは疑問に思ったが、口にしたのは二度目の「ありがとうございます」、そのひとことだった。
そしてソフィアは、マリーナに確認しておきたいことがあるのに気がつき、彼女が姿をくらませてしまう前に口を開く。
「マリーナさん、あの……今夜は」
「わかっている。まかせておけ」
「……はい」
今夜は、ソフィアが待ちにまった日。
夜会の日だった。
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